行き先のない

岡村靖幸2019 FALL TOUR「やばいよ!この気持ち。」@中野サンプラザ公演へ。2015年にフジロックで一度岡村ちゃんを見て心奪われてから、年に1・2度ある単独ライブへよく足を運んでいる。(初めてツアー見に行った時の記事: DATE - mascarade) こんなの、ぜったい変なうごきのダンスだし、と思いつつもめろめろ、みたいにいつもなってる。アンコールをはさんだ2部の1曲目「Peach Time」でトレードマークのメガネを忘れて出てきてて、なにそのおちゃめ…とときめき。わたしのなかの雌がすべて放出されている感じ。ちなみに有給休暇までとったのに昼寝して寝坊して遅刻して最初の数十分間に間に合わず、ほんとうに情けなかった。

・取引先と会社の後輩の家族の、台風19号とその後の大雨による洪水被害を知り心痛む思い。台風19号Hagibis通過の日は、前日から水2Lを何本か買い置きして、風呂に水もためて、窓にガラス飛散防止のビニール袋とガムテープを米の字に貼って、1日中家でじっとしていた。お風呂に入っている間がいちばん、雨風の音が聞こえなかった。つけっぱなしのNHKでずうっと流れている各地の風雨の様子。でもこういうときはたいてい、その日の間に被害状況の全貌は決してわからなくて、きっと朝起きたら、3.11や、以前水害が起こった時と同じような映像を見ることになるんだろうと絶望しながら眠って、朝起きたらそのとおりだった。つらい気持ちになる。個人的な反省は、今回はどこかへ避難するつもりはまるでなかったけれど、それも想定して備えをしておかなければならないなということ。

・家族内の不調和。あからさまに発生した思惑の違いとその影響。わたしは争うことが苦手なことなかれ主義者であり、どちらの言い分もわかるゆえなんともいえない。こんなときに限って家族旅行の計画がある。

・早起きはつらい。

・最近は家に帰って夕食をとるのは22〜23時くらいになることが多くて、胃に負担がかかっているし、それが続くとなんとなくいやな気分になる。たとえ1週間を振り返っても夕食ってなに食べてたのか覚えてないことがほとんどで、白飯を食べると身体に負担かなと思い大豆製品ばかりとっている。

・楽しいこととやらなきゃならないこと。

・死にたかった気持ちは8月に夏休みを取れたおかげでましになったので、覚えのない宛先から葬式のパンフレットが届いて一人驚いたりもしていた。過ぎてみないとその異様さには気づかない。

そこへ行くはずだったのに

毎日死にたいと思っている。駅から家に帰る間あ〜死にたいはやく死んでしまいたいと毎日思っている。そう思わなかった日もあったはずだけど底辺にいる間はどうも思い出せない。そもそも思い通りにいかない日々とか情けない日々、疲れ切って出口のない日々に対して死にたいと思うだけ、具体的な手段や道筋でなくただそれしか思えない逃げの思考が情けないしそれなりの年数を生きてきた人間としてその思考の癖はどうなのかとも思っている。わかっている。今年の七夕の願いは「なるべく早くなるべく自然な形でこの人生を終えられますように」ということにしよう。かなしいけどたまには終わりの形を願うのもよいだろう。ほかはだいたい叶っている。

うじうじと悩んでも寝て忘れるし起きればまた思い出すだけなので、周りに相談しても答えがないことも明らかだし、さっさとその準備をしよう、終活を。顔の見えない相手との未来のための資金を蓄えるよりてめぇの人生をてめぇの金と責任で終えられるように準備と段取りを。資産の整理や遺品の始末、葬式の手配とかエンディングノートを書いておくとか、できれば法的に認められる遺書も準備したい。

と、いうところまで毎度考えて、それを実行するのが面倒でベッドに横たわりながら価値のない時間を過ごして、1日が終わる。それが繰り返す。そこは出ないと明るく振り返ることができない。 生きていることが前提で成り立っているすべてなので、生きていれば、鳥肌が立つほど感動することや心動かされる面白いこともあるけれど、決して生きる理由にはならない。終わりがあることは救いで、終わりのことを考えるとほっとして安心する。

10年ももっと前からもわたしの考え方にはたいして成長がないでしょう。どうしようもないことばっかり書いては公開して。まったく仕方ないですね。勝手にはてなブログに切り替わっていた。

根菜のはなし

あけましておめでとうございます。昨日思い立って筑前煮ときんぴらを作った。料理本を見て材料を買い揃えて、筑前煮にいれるこんにゃくを手で一口大にちぎった。よく写真や説明では目にしていたけれど、恥ずかしながら実際にやったことがなかった。こんにゃくを固定している左手もそれをちぎる右手もこんにゃくがぷるぷるするたびぷるぷるぷるぷる揺れて、しだいに自分の手が自発的に震えているように思えてくる。共振しているようになってくる。すべてを一口大にし終えてもその感覚がいつまでも右手に残って、しかも少し快感すら感じているような気もしてきて、このまま頭がおかしくなっちゃうんじゃないかという気持ちが筑前煮が煮詰まって完成するまで続いた。どちらも美味しくできたので嬉しかった。

いつからそれを始めたか

過去の旅行記が面白いと思ったので転記。
===
2015/08/17 22:55
池の水の落ちる音を聞いてる。ときおり蝉が窓にぶつかる音がする。
誰かが私について想っているかどうかをLINEなどの文字・表象に頼ってよいかどうか。ひとりの時間、ぼんやりとしている時間、想いにふける時間が長いほどその人のことをよく思い出してしまう。恋とはエゴであり心の暴走なのだとわかっているのに。所有欲が大きくなく、でもその人のことを想うと舞い上がる気持ち。
近くの露天風呂へ行った。天井は木造で、空も外も見えなかったけれど外気温と、鈴虫の鳴き声がする。何より露天は最高なのだった。最高、至高と思いながら浸かる湯。
温泉に行きいろんな年代の女の裸を見ることは非常に感慨深い。個体差はあれど、一度は通ってきた身体、鏡に映る現在(いま)の身体、いつか訪れるであろう身体。過去を想い来たる未来を想うよ。年を重ねてゆくことは何かを得たり失ったりすることだと漠然と考えていたけれど、もしかして"生まれてから死ぬまで1で有り続けてそれ以上も以下もないのではないか"、何かを失った分何かを得ていて、その逆も然り、増えたり減ったりすると思われたそれは、いつもイコールなのではないか、と思いつき、切なくて泣けてきて湯で顔を洗う。映りゆく水面のように切ない。通りすぎてきた発育途中のウブで曲線のゆるい。母としての。何十年も生きた器としての。裸も恥ずかしくなくなったし、浴場に持って入る白いタオルの扱い方も、数年前と比べるとましになったものだ。
男を知らなかった(知らない)裸ってきっとなんて素敵だろう、と。

リンゴは

2018/11/4, yumbo @ 渋谷7th FLOOR。「みだれた絵」という曲、ボーカルのソロから始まりそこから一気に引き込まれて、こんなに素晴らしい曲だったのかと気付く。「あなたは/対岸のビルに灯る/光る窓/舗道を照らす」ああ なんて美しいんだろうと。
わたしは1年前も同じ日に同じ人たちのライブを見ていた。1ヶ月前にも同じ人が作った音楽を聴いていた。yumboの奏でる音楽、澁谷さんの作る音楽はわたしにとってほんとうに尊くて、何者にも貶められえない。ここしばらく逃げ込むようにずっと聴いている。この日はスピーカーから出てくる音の大きさが(好きすぎるゆえに)アンバランスに思えて、結構残念だった。知り合いを見つけたけれど声を掛けられずに帰る。
家族の誰かが柿が好きだった、おばあちゃんだったか弟だったか思い出せない。この秋は頂き物の柿をいくつも食べていて、柿がおいしいと思えるようになったことは大人になったことのような気がするのは昔わたしはあまり好きじゃなかったんだろう。熟れるとこんなに甘くて美味しい。でも放っておくとすぐに熟れてやわらかすぎてしまって扱いに困ってしまう。そのときは凍らせてシャーベットにするのがおいしい。田舎へ行くとあちらにもこちらにも柿はものすごい数が木になっていてこんなにも豊かなものなのかと驚くけれど、それらのほとんどは渋柿なんだそうだと人から聞く。干せば甘くなるから干し柿にするそうだ。先月実家へ帰った時、裏の洗濯物干し場の柿の木に実が成っているのを見つける、今年から実がつき始めたそうだ。桃栗三年柿八年と云うけれど今年十三回忌だったおじいちゃんがまだいた頃に植えたそうだからもっとかかっているはずだって。やっぱり1本の木にたくさんついていて、食べれそうなのを1つもらってきてりんごと一緒に置いておいたらすぐに熟れて、食べてみたら渋柿でなくて甘くておいしかった。柿が好きだったのはおばあちゃんだったのかもしれない。
季節の変わり目に体調を崩す確率が150%くらいかそれ以上、風邪の症状ではなくただだるくって頭も身体もまったく使い物にならない。なんにもせずどこにも出かけずしばらくの間寝ていれば治るものの、毎回この人間を辞める感じ、一応気にやむので心に悪い。どこにかかればいいのか、どうしたらよくなるのかもわからない。学生のときは確かこんな症状はなかったはずなのになあ、この生活は向いていないのかなあ、じゃあどうすりゃいいのかなあと毎回同じことを考える。今回はぶり返したりして不調の期間が長くて、2週間くらいかけてやっと前と同じステイタスまで戻ってこれた感じがあるけど、どこが戻る場所だった?そもそも今までうまくやっていたと思ってきたことが幻想だった?
果物はりんごが一番好き。店でりんごを買うときは表面の模様を見ていちばんピンときたものを選ぶ。宇宙みたいと思う。手のひらに宇宙があるみたい。

この世に未練がない。満足している。楽しいし辛いし、好きな人たちがいて嫌いな人もいて。気に入ってもらうこともあるし嫌われることもある。負うものもない残すものもない。ただのなんでもない人。元気ですし楽しいこともあります。ただ疲れきっている。

きもちの弔い

花を買うことが大切になっていて、わざわざ家の先の隣の駅まで電車に乗って、見たことない洒落た花を置いているお気に入りの花屋へ行って、その日のサービスブーケを買って、花の名前を聞いて帰る。今日買ったのは、ラナンキュラス、マトリカリア、ナズナ(ペニークレス)、ヘリクリサムシルバー。まだ咲いている白のカーネーションとムギと束ねて飾った。4月14日はオレンジDayなんだそうで、オレンジのラナンキュラスのブーケを選んだ。
会社の近しい人との不和に悩んでおり、それはもうすぐ終結を迎えるんだけど、迎えるのに、家に帰ってきてもまるで恋しているんじゃないかってくらい、その不和についてよく考えている。どうしてもわかりあえないこととか、とけないもしくはとくことのない誤解とか、仕方ないとわかっていてもそうあることにダメージを受けるし良好だったときを思い返すし相手の心情や感情を慮ろうとし同情しようとしている自分もいて、やはりこれはのしあがることや勝負事が苦手だし向いてないなと心底思う。辛いくせ中途半端に相手にも寄り添おうとする姿勢がわたしにはあって、前に、「自分を守ることが大事だよ」と教えてくれた年上の人のことを考える。前に人間関係に悩んだときもそうだった、わたしはこんなに我慢する必要なかったんだ、ってきっと思うんだろう。
また体調を崩して病院にかかって風邪薬をもらって、先生のカルテの日付を覗き見ると前回来たのは前月だった。いずれ来る限界について考えることがある。