the light

色とりどりの花が咲く春はいい季節だとよく知ってるけど、春が近づいてくることよりも冬が去りゆくことがほんとうにかなしい。あたたかくなってゆくことは寒さで縮こまってかたまった心を弛緩させてゆくことで、知らないふりしてた要らない感情に気づかせるから嫌だ。今日は紅や白の花をつけた梅の木を数本見て、ああ春の訪れも近いなと気づいたのだけれど、あたたかくなるにつれてコントロールできない感情が浮き際立ってきてこの季節はつらいことを思い出していたら、1年前にも同じことを書いていた。変わっていない。まったく目に見えないのにこれでもかと存在感を煽る花粉も飛び始めたのを自分のくしゃみで知る。
今年は大雪で大変な土地もあるのにこんなコメントはどうかなと思うのだけれど、わたしは雪が好きで、空からしんと降りつづく様子とか、薄く白く積もった枝とか、真っ白で音を奪う風景とか、芯から凍える寒さとか、そういうことひとつひとつが尊いと思う。ずっと雪が降る土地で長く過ごしたことがないし、旅行で訪れて目にするだけだからこそそう言えるのかも、暮らすとなったらあっという間に嫌になってしまうかも、わからない。去年の年末は秋田へ行って、その頃としてはちょうどひどく雪が降った時期で、万全に防寒して、地元の人は出歩いていない中をよく歩き回っていた。すごく素敵な時間だった。春に逆らうように、まだ寒いうちに雪のある街へもう一度くらい出掛けたい。
***
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTをよく聴いてる。トカゲと世界の終わり。 ミッシェルというと、高校3年の冬、学校までの道を自転車を押しながら、SONYのプレーヤーで周りの音がなんにも聞こえないような爆音でミッシェルを聞きながら歩いて、枯れ葉のたくさん積もった近くの公園に行って1限をサボったとき、の記憶がよく思い出される。でもそのときほんとうにTMGEを聴いていたのかどうかもあんまりよくわからない、大学に入って知ったのかもしれなかったし。あとは授業をサボって別棟の校舎の屋上へ続く踊り場ではっぴいえんどの空色のくれよんを聴いていたこと、これまた授業をサボって1階の女子更衣室で冷たい床にねそべってsyrup16gの明日を落としてもを聴いたこと、放課後の教室で爆音でMetallicaを聴きながら机につっぷしてたこと、などが思い出される。たぶんずっと音楽を聴いていたはずなんだけど、その風景というか体験たちはよく思い出される。
イエモンが青春だったという会社の先輩からオススメされ、かっこいいじゃんと思い、とりあえずベストなどをよく聴いている。THE YELLOW MONKEYはサークルで演奏されてるのをなんとなく聞いたことがあったくらい。吉井和哉名義の「CALL ME」を一時期おそらくケーブルTVでよく聞いていて好きだった。ボーカリストの元来の暗さがバンドに混ざることで極端な勢いを持って一種おかしいほど明るくなって、そのぶっ飛んだ感じがよいね。あからさまなのに抑圧されている色気もよい。わたしが語るまでもないのだろうけれど。
⒊わたし以上に彼の音楽を愛してるひとがたくさんいる、と思って諦めてしまっていたけれどそんなの誰だって当たり前じゃんね、 小沢健二の「ある光」がApple Musicにあがってからひたすらに聴いている。遠くへ旅立つ友人に贈りたかった曲。わたしにとって非の打ちどころのなく完璧で、その名のとおり希望のように光り鳴っている。はげましてくれるようにもなぐさめてくれるようにも聞こえ、やさしくて泣きたくなる。それが"ある"光であるのもいい。最高に大好きな曲。

⒋TWICEもよく聴いている。かわいいし元気が出る。自分の生活にほとんどまったく直接関係しない人のエールというのは、その無責任さがありがたく染み入ることがある。離れて暮らすおばあちゃんに応援されてるような。
***
過去の自分が何を感じて考えて生きていたのか、を時折振り返るのは面白いし、手書きの文字でなく画面でフォントに閉じ込められてると他人のように見えてより趣深い。喜びや感動や愛は言葉にならないことが多いし、絶望とか憂鬱ばかりが残されがち。でもどうしようもなくてしょうもなくてもそれを見て滑稽だなと誰かに思ってもらえればそれでよいしそれがいい。
「何年も誰にも選ばれないってつらいものだよ。」と言った自分の言葉に傷ついているような気がする。冬が終わっていくせいかほんとうに憂鬱で、もっとハツラツと仕事できたらいいのに、達成したい目標を持って、毎日こつこつやるべきことをやって、部屋や身の回りも小綺麗にして、きびきびと歩くし気持ちの良い笑顔で話しかけたり、朝早く起きてコーヒーを淹れて早く会社へ行ったり、製品の勉強したり、不機嫌な人に振り回されることもなく、怒りや絶望に身を包まれることもなく、ああもっとこういられればよかったのに、という姿からどんどん遠ざかっていく。
会社の人が運転する車の助手席に乗って北から東京へ入っていった。ほとんど暮れた高速道路は車の形も見えるかどうか、走っていくヘッドライトがやけに眩しくて、きわだってゆく高層マンションやオフィスビルの灯りとともに匿名性を帯びてゆく光りの集まりはきれいだった。

Like a party

2017/11/4, yumbo @ 神保町試聴室 / 素晴らしかった。もう何年も、東京でのライブは観ていることになるけど、ここ数年の中でも特にこの日の演奏は良かった。
どこか不安定な、あやうさを秘めているのが彼らのライブの特長であるけれど、それよりもその日は、バンドとしての"成熟"、実りを感じられた。Vocalのあゆ子さんは(まるでわたしの敬愛する山口百恵のように)圧倒的にステージ上の歌手であり、仕草や視線、まばたきなどが女優のように細部まで計算され演じられているよう。サポートゲストを含め演奏も非常に安定していて、曲の美しさや不穏さがよりきわだっていた。管楽器や打楽器の音が重なりゆく様はなにかひとつの空間を満たしてゆく色のようであった。新曲の衝突トリロジーも、2ndアルバムからの曲も、現在のメンバーで再構築されより曲の強度を増していた。
yumboの、澁谷さんの書く詞は遠いなにか普遍的なものを歌っているように聞こえて、でも至極至近な事柄や感情を暗喩して歌っているのでもある。そのことばの選び方やメロディーへの乗せ方がとても好きで、何度聴いても飽きることがきっとない。目前で演奏されるyumboの音楽に歌に詞に、何度も何度も身体がぞわぞわと興奮し悦んでいた。年に数回しかライブをすることがないのだけど、それぞれのメンバーが考え方や形を変えながらも同じ時間を生きていて、そうやって集まってyumboとして音楽を奏でていることに深謝したいくらいであった。生きているうえでよかった夜のひとつに数えられたし、なにかによって救われる魂などがどこかにあるのなら、ここにもきっとあった。
はじめて「鬼火」が愛の歌、おだやかな心の歌に聴こえた。

インターネット上ではこのようにして枯れていくのだろうとわかった。PCを開いて文章を打つ代わりに手帳に日記を書き込むことが増えていた。2017年の春から夏にかけてを総括して残しておきたいとは思いつつ。要約するならば、1)偏見に気付いたりそれを打開したり乗り越えたりしてきたこと。2)過去から今までの時間軸上の点に立ち返り、それを線でつなげていったこと。3)好きになったり嫌われたり他人との関係について悩んだり感謝したりすること。あとは脚色なく本当に月1ペースで風邪をひくので免疫力を向上させたい。

ロロの「父母姉僕弟君」の再演を観て、やっぱりめちゃくちゃよかったし思い出すと泣きたくなる。ロロを初めて観たのが5年前の初演で、それまで演劇をほぼ観たことがなかったこともあり「なんかすごかったなあ」という記憶しかなかったのだけど、なんでこんなに切なくて泣きたくなるのかをちゃんと知りたくて、できれば、もう1度観に行きたいと思っている。

真夏日

ほんとうに、まるで、熱にうかされたように、そのことばかり、考えている。きっかけはわかるけれど、はじまりがどこだったか思い出せない。理由が見つからなくて興味だけ強くある。まるで恋だ。会社で鼻歌歌いだすくらい。わたしのわたしが信頼ならない点がいくつかあって、ひとつは熱しやすく冷めやすいこと。なにかを2年以上続けることに自信が無い。この熱っていつまで続くんだろ、と少し冷めた視線を浴びせる自分がいる。ふたつめは人に頼り切ってしまう姿勢があって、それをどう振り切って独り立ちするのか、ということ。都合のいいことをよく考えるので、いやそうでなくまず自分一人で行動しようよ、と戒める。
それにしても、この前の日曜日のことを思い出すとどきどきわくわくするし、いよいよYoutubeを漁りだすし、部屋でステップを踏み出すし、夏の計画を立て始める。8年前の日記、「⚪︎⚪︎⚪︎がこわい」とわたしは書いていて、ほんのうっすらとだけれどその気持ちはわからなくなくて、いつも何かを卒業するたびそのコミュニティーから足を洗うようなつもりできたので、地元では知り合いと会うから嫌で、ずっと避けていた。実家はあるけれど周りとの付き合いってほとんどないし、そういうの、もっといえば人間としての営みに対して、面倒くさいしダサいし格好悪いし嫌いだと思っていた。なのにそういうものが生み出す文化をまさに好きになりそうな自分がいて、矛盾する気持ちはまだ折り合いがつかない。いつも自信がないからなにか軽蔑するような気持ちでいるんだろう。それをどこかへやってしまいたいわけでもなく、どこかへいってもくれないし、とりあえずよそに置いておくことはできるけど、どうしたものやら、未だ扱いに困っている。東京を選び続ける意味や理由をまた問われる。あとはその突如現れたかのように思われるそれが、自分が今までしてきたことを振り替えるとまったく違和感なく、延長線上にあるように思えるのが不思議だ。内包する様々な要素が点と点を結んでいくので、必然のようなものを感じてすらいる。好きならやればいいし、いやならやめればいいし、余生だし自由だよ。 盆踊りの話でした。

柴田聡子のNEWアルバム『愛の休日』が素晴らしく、頭の中が柴田聡子節と白鳥踊り節で楽しそうな感じ。「忘れたい」の歌詞がいちばん好き。
それと小沢健二のアルバム『刹那』をちょっと前に初めて聴いて、TSUTAYAへCDを返す前にiTunesに歌詞全曲をベタ打ちするという、中高生みたいなことをしていた(好きな歌詞をノートに丸写しする、みたいなさ)。「さよならなんて云えないよ(美しさ)」、「強い気持ち・強い愛」の終わり、声に出して歌うと涙が出そうで喉がグッと詰まる。残酷で美しくて、この詩が生み落とされてそれに出会えてよかったと、思う。好きな歌は生活に感情を取り戻してくれ、結構本気で生かされてるなあと思う日々です。

ドライフラワー

満開の桜の下の花見、からの温泉、からの鍋、という最高なプランを経た。桜の美しさに対してどうも懐疑的であるのだけども、一面に咲く満開の桜を一目見て、「うわぁー」という歓声が自然とあがった。上野公園や代々木公園のようなポピュラーな公園でなかったためか、家族連れや地元の集まりらしき人が多く、レジャーシートたちの合間も十分な余裕があるし、雨もあがって、買ってきたお惣菜と缶ビールと日本酒と持ち込んだお菓子とで、並んで座って、花見をした。空は真っ白だった。途中からは風が強くなってきて、一斉に散り出して花吹雪になって、散り出すとお祝いの気持ちよりなぜかお別れの雰囲気が強まるしなんとなく悲しくなった。同じ少年が何度も側を通り、ウサギを連れた人を2組見かけた。
誰かと一日中一緒にいること、並んで歩いて、一緒にご飯を何度も食べるし、思いついたことをちゃんと言葉にしてみたり、異なる感想を語り合ってみたりする。彼女にとっての当たり前はわたしにとって非日常で、それを少し分けてもらった気がする。あるとき、同じ場所でほぼ同じような環境にいた(と思っていた)人たちはそれから、みんなそれぞれの生き方をしていて、他人はどんどん遠くなっていくなあと感じることが、多い。
4月だし桜が咲いたから花見をしてたのに、自分の中の季節認識がまだ「冬」であったことを指摘されて愕然とした。やっぱり圧倒的に冬が好きなんだけども、季節感覚がまったく追いついてないとは・・・。
「LA LA LAND」も小沢健二の「流動体について」もなぜわたしがこんなに惹かれるかというと、選ばなかった人生についての話はわたしたちについての物語だと思うからだ。恋愛について、仕事について、家族について、生と死についてだってもちろん同じ、生きていくうえで出会う事柄という点で皆共通だけど。今 生きている生活の時間軸上 わたしたちは常に「選択」に晒されている。それを切実な問題だと思っているから。
ロロとのコラボを見てからEnjoy Music Clubを好んでよく聴いてるのだけど、お気に入りな理由は彼らの曲のテンポが歩く速さと似てるから。この曲、ロロの女優さんたちとの掛け合いが素敵だった。

3月のブルース

今を生きている歌だった。新宿の街、歩行者天国、開かれた空間。スピーカー1つにマイクとギターが出力されるというサウンドシステムで、目の前で歌ってるはずなのに公共放送のような、もしくは100年前か100年後のレコードが流れているような。スピーカーはとぎれとぎれになって途切れて、マイクを通さない生の声を響かせると反対側のビルから音が反響してはねかえってくる、空気が震えて今目の前で歌われる歌、今生きている人の歌だった。春だった。
2017年3月19日、"百年後、新宿で"と題された前野健太「百年後」発売記念ライブ、紀伊国屋書店新宿本館1階にて。本の表紙と同じ柄のシャツを着て、「新宿在住、前野健太です。」「前田健太じゃないのー」「サンシャイン池崎じゃないんだ〜」とかいう、通りかかる人の声。新宿という、たくさんの様々な人が通り過ぎてく大きな街で、その知らん顔とか呟きさえ全部歌にしちゃうような力がある。私の感想は毎度同じことばっかり言ってる気がするし、でもやっぱりいつもそう感じるのだった。飽きることはなくて、そうやって自分が現代に生きてることを確認しているようでもある。
***
盆踊りはとても楽しく、新たな扉を開いた感がある。
JON(犬)&ごっこ社の銀座の恋マルシェ@CHAIRS。銀座のビルの2階へあがると、いや1階にいるときから、人の掛け声とそろった足踏みが聞こえていて、扉を開けたら20人弱の人が輪を作って踊っていた。真ん中には唄を歌う着物の男の人。今まで見たことのない少し変わった手つきの踊りで、でも輪を作って踊る人たちは振りを迷うことがなく、おそらくみな一度以上踊ったことのある人たちだった。主催らしき若者たちが内側の輪で廻っており、外側の輪にはおじさんやおばあさんもいる。
主催のにゃんとこさんのZINEを読むとこれは「郡上おどり」「白鳥おどり」という盆踊りだということがわかり、景気付けにSKY BLUEという甘〜いリキュールを飲む。踊り進むのを輪の外からずうっと見ていた。こういうときは恥を捨てて「踊らな損!」と思う人間なので、どうにかきっかけを見つけコートとバッグを端の方に置かせてもらい、8曲目「世栄」から輪に加わる。「どっこいしょ!」という掛け声でどんどんテンポが速くなって踊れなくなってってつい笑う。ほんの数曲だけだし振りも見よう見まねであってるかわからなかったけど大勢で一緒に踊るってのがなんとも楽しかった。最後にはたぶん30人くらいの大勢の輪になった。もっと踊りたいし踊れるようになりたい。郡上おどりの徹夜踊りに行ってみたいなと結構、8割くらい本気で思っている。錦糸町河内音頭も今年こそは絶対行くゾ。
***
今日は会社へ休日出勤しようと思っていたけれどどうもやる気が出ず、というかまったく行く気にならず、というか行きたくなくて、やめにした。行かないと片付かないことが山ほどあったんだけれど、どうも面倒くさくて。
ぜんぶ春のせいにしたい。周期的なものでもないのに、意味もないのに泣きたくなったりするのは健康的でない。「死にたい」と思うことは未だにあるし、27年生きてきたから余計、もうほとんど知れた気もする、今後数十年生きて得るものってもちろん知らない感情もあるだろうけれどだいたい想像がつくような気もする。過去と変わったのは、そう思うときはたいていどこか調子が悪いときだと気付くようになったことだ。気分が落ち込んでいるか、身体の調子が優れないか、疲れているかのどれかだ。
***
ちょっと悲しみややるせなさや怒りを感じる出来事があり、整理するために同じ内容をいろんなところにいろんな手法で書く。
きっと何かを信じて生きていくことは強くなることなのだ。そして何かを信じないと生きていけなくなるくらい人って弱い。信じていること・いないことがそれぞれ良いこと・悪いことではないし、そうするかしないかは選択の自由があるはずだ。もしかしたら信じることのほうが楽で生きやすいのかもしれない、迷わないから。ただ、必要としない人に無理やり押し付けるのはどうかと思う。他人のそれ(信念)を見下したり馬鹿にしたくはないと思っている、できるだけ、なぜならわたしが自分の大切にしているものをそうされたくないからだ。たとえ大切にされず嘲笑われても関係ないと思う、無理に理解される必要もない。ただ、たぶんその価値観が近しい人たちと過ごすほうが楽しいと思う。

春は苦手

『LA LA LAND』を観た! (監督:デミアン・チャゼル)
「叶わなかった恋に、意味はあるのか?」という問いと、それに対するこの物語の答え。時の経過が知らされ、偶然彼と彼女が再び出会うまで、きっと出会うだろうとわかっていたはずなのにすごくどきどきした。ピアノを弾き始めてからの回想、「もし、あのときこうしていれば」の選ばなかった/選ばれなかったできごとの連続。素敵に出会っていれば、誘いを受けなければ、彼があの場所にいることができれば、それが大成功していれば、一緒に過ごすと決めていれば、そして2人結婚して子どもがいたら、2人の出会いから別れを見ていて、きっとその可能性もあったけれど選ばなかった道。(特に観客はこの出会いのシーンを期待していたはずだから、ここでその期待に応えるのがずるい。)ハッピーエンド/バッドエンドではなくその先、どちらがよい/わるいを見せたいのではなくその先へ続く生活の、そこでふと思い出される過去、決して叶わなかった想いだけどきっと意味があったよね、って抱き合うこともキスすることも言葉をかわすこともなくただほほ笑みあう。なんてそんなことあるかよずるいよ、と思わせるけどそれはもう、オープニングの炎天下の大渋滞の中で人々が突然歌って踊り出す時点で、「これはエンターテインメントでフィクションです」と大きくうちだして語り始めるのだから反論する術はなし。都合が良すぎるのはすべて「この物語はフィクションです」で解決。あんなに本気で憎まれ口をきく2人が本当に恋に落ちるのか不安だったはじめから、叶わなそうでもあったけれどその分、すっごく輝いて見えた時期、空も飛べそうな気分、ってよくいうけどほんとうに星空を舞い出したのには笑った。
これが「ロサンゼルスタラレバ男子」(主演:ライアン・ゴズリング)でも成り得るわけで、これもどちらがよりよいではなく、現実は物語は、視点やとらえ方や描きようでどうにでもかわる。仮定や仮想、想像の自由さと途方もなさ、可能性、光。


上のツイートを見てこれは早々に観ねばならぬ、と思って日曜夜映画館へくりだした。それにこの方々がもっと綺麗にそういうことを書いている。
わたしがこの題材が大好きだから今までの途方もなさ(星空のシーンとかね)をすべていいね!の評価に寝返らせてしまったともいえる。あとたぶんわたしは小沢健二のシングルを聴くべき。

***

コドモ発射プロジェクト「なむはむだはむ」を観た。 (つくってでる人:岩井秀人森山未來前野健太
「長い毛 2」は毛の大冒険物語、これが毛でなくなにか主体性を持ち得そうな生き物であれば理解したり納得したりできるのだが主人公は「長い毛」。面白く観ていたものの前野健太が歌の中で「いらないよ 息つぎなんて」という。その瞬間”理解できないけどなんか面白いもの”から突然、それに感情移入してそれに成って「いらないよ 息つぎなんて」という今まさにその最中にいるモノの台詞に聞こえる。そこでこの作品は、ひとつの天井をつきやぶって軽々とその先へいった、気がする。子どもの自由奔放な物語へおとながぐいっと引き込んだ一瞬。そのあとも「夜は夢 朝に空 夜は海 夢の中」とつづく、隠喩の想像力。
あまりに意味をもちすぎ、与えすぎ、汲みとりすぎなんじゃないかわたしたちは、汚ないものとか変なこととか、自らタブーを作りすぎなんじゃないか、いつ大人になったんだろう、でも子どもと比べると"圧倒的に"、大人の側にいた。でも「爆発!!はい死んだ〜」ってな感じで死ぬことってあんな感じで笑えることだったかも、とどこか(どこ?)が知ってたかも。
普段ふつうに生活しているうちじゃあ、ああいう風に背筋がぞくぞく、わくわくすることってないので昂った、興奮した。Eテレでやってた特集番組も見てた、できないとかダサいとかカッコ悪いとかそういうの気にせずにただいいものを作りたくて、丸腰のまま全身で体当たりしてくおとなってかっこいい。
コドモ発射プロジェクト「なむはむだはむ」 東京芸術劇場

***

身体は壊さず元気ですが春が苦手。花がたくさん咲いて好きだけど苦手。暖かくなるといつもどっかのネジが1本抜き取られたような不安な気もちになる。冬が寒さが恋しい。

ときめき

新年明けましておめでとうございます。本年も宜しく御願い致します。毎年新しい西暦を迎えるたび、未来に来たなあと思います。2017年。
ときめきは食べ物だと思う、と昔言ったしやっぱりそう思う。ときめきをばくばく食べていてそれがエネルギーになって、心が燃えている。人に興味があるってこういうこと、人をかわいいと思うこと、話せてうれしいこと、など、生きてる感情をくれる。ときめきをくれることに感謝である。日々の生活を頑張る。
***
年末に行った石川の片山津温泉総湯潟の湯は最高だった。雑誌の温泉特集で見かけたので行ってみるという新しい試み。うまく作られていて、湯に浸かるとガラスの外の湖の水平線と湯船の水平線が同じ高さになる。想像力、一体感、開放感、という点で、素晴らしかった。次の日にもう一度入ろうと思っても2つある湯が男女日替わりなので同じ湯には入れない。一度更衣室まで戻ったのにもう一度入り直した。夜より夕方の景色の方がよかった。旅館の大浴場からも湖が望めたけれど、あの一体感は総湯ならではだった。今まで行った温泉の中で最高のロケーションだった。
金沢ではゲストハウスに泊まり、年上の女の人と夜ごはんと朝ごはんを一緒に食べ、銭湯に入り、仲良くなった。寒い中宿まで歩いて帰った。その日にたまたま出会ってあんなに親しく話ができるなんてうれしかった。それと金沢21世紀美術館は、美術館が一つの観光スポットとなったところがすごい。美術館へ訪れることは少し敷居が高いように思わせるけど、体験型のインスタレーション知名度が高いしたくさんの人が並んで1,000円とか1,800円とかの入場券を買ってくのだった、一つの観光スポット、レジャー施設として。タレルの部屋では天井が彼の四角形でくっきりと切り取られていて、その空は雲もなく一色に薄青くて、外気の温度を感じたから空だろうと思ったけれど、部屋を出て窓から空の色を確認するまで、本物の空だったのか疑っていた。うまくバスに乗れなくて遠回りをして帰る。
前日の雪の積もった兼六園で、回遊式庭園の良さを初めて思い知る。行き届いた手入れと植物の自然の美しさが相対することなく調和を生み出している。少し前に人と、国歌君が代の「苔のむすまで」の歌詞について話をしていたことが思い出された。日本人の美の見出し方の一つが感じられたので、外国人がたくさん訪れていたことは日本文化を知るうえでいいこと、嬉しいことだと思う。
富山へも行き喫茶店「珈琲駅ブルー・トレイン」へ行った。電車好きのマスターの喫茶店。店の壁中に特急や新幹線のトレインマークが貼られて、模型の電車、北陸新幹線・青森新幹線や貨物列車が店内のガラス張りのジオラマの中を走って、メニューの表表紙にもトレインマーク、もうそれはメニューでもないのかも。夢に溢れてる。交通手段では電車が一番好き、旅に出るのも電車が好き。北陸新幹線も、大宮からでなくわざわざ上野から乗ったのだよ、旅情のため。
毎度のごとくすごい量のおみやげを買って帰る。金沢には和菓子屋さんがたくさんあって、金つばと福梅を3種類ずつ買って家族で食べ比べをした。わたしは金つばはたろう、福梅は森八が一番美味しいと思ったけれど、家族の中では中田屋の金つばが優勢だった。
片山津温泉を歩いて「わたしはなぜここに住まなくて、東京に住んでいるのか?」と自分に問うてみたけれど答えは出ない。わたしはいつまでも東京の"可能性"にうかされているのか。なぜ実家でなく、片山津温泉でなく、ここ東京に住んでいるのか?わたし自身の答えが欲しいしそれを知りたい。
***
年末年始は実家に帰って、家族みんな揃ってゆっくりして、よかった。昼まで寝たり、おせちやらおやつやらずっと食べてばっかりだったり、テレビ見てなんでもないこと話したりして、心がほぐれた。うちの家族は衝突が少なくて、普段はそれぞれにあんまり深入りしようとしない。でもたいしたことない会話をしてよく笑っている。わたしにとっては家族が帰る場所としてあり、それは本当にありがたいことだと思っている。自分の人生や生活や結婚観は置いておいたら、おばあちゃんたちが生きている間にウェディングドレス姿とか見せてあげたいし、両親が孫を可愛がる姿を見てみたい。
年末にリピートして聴いた曲。山口百恵 / さよならの向う側 - 動画 Dailymotion