この皿に冷奴をのせたい

映画「君の名は。」を観て。公開からここまでずっと長い間、人々の興味を引き続けるのはすごい。(内容に言及します)
"災害"が起こりうる社会にいること、その言葉にはセンシティブになるけども、リアリティーをもってそれが「在る」ものだというのが2016年の今らしい。そしてそう(=生きる)ならなかった未来にわたしたちはいる。映画の中とは反対に。/物語の佳境、「君の名は…!!」と互いに何度も問うところ、演劇の一人語りみたいな激情のほとばしりかたはどうもステレオタイプで、入り込めないと冷めてしまう感じ。人一人の感情の昂りはきっと視覚的なほうが伝えやすいのではないか、なんとなく不自然に感じた。わたしが人の名前を思い出すときは、会って名前を知ったとき、それからその人と関わったシチュエーションを視覚的に思い出して、糸口を探していってる。いやそういうシーンもあったか。/ラストシーン、すべてを見てきた観客は「出会え出会え」と強く祈ってるわけだから観客の欲望を叶えるという点では花マル、でも「いつも何かを探している気がする誰か」はそこでいなくなってしまう。この物語はそこでおしまい、なのか?/ヒロインが初めて東京を目にしたときのきらきらした風景描写が良かった、JR新宿駅南口とか。東京もただ"ひとつの選択肢"でしかないのにどうも忘れがちだ。
マイマイ新子と千年の魔法」を吉祥寺バウスシアターに2回も観に行った、残念ながら内容をよく思い出せないけれどひどく感動したのだった、なので「この世界の片隅に」も観なくては。「シン・ゴジラ」はマイ・フェイバリット・ムービーとなり、劇場でもらったステッカーは会社のデスクに飾っていて視界に入ると少しだけ気持ちが上がる、交通手段の中で最も電車が好きな身としてはやはり「無人在来線爆弾」は一番に高まった。
夏からは、「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」といった具合か、まだげんきと言い切るのは難しいかな、周りへ期待すること、絶望すること、諦めること、腐らないこと、のバランスが難しいし、秋口はなんだか仕事ばっかりしていて仕事と仲良くなりすぎ、日常とべったりしすぎ。
人と親しくならないこと、は他人にどんどん厳しくなっていく自分である、気がしている。他人に寛容でありたいけれどその逆へと走っていくような。
ちえちひろさんの「青のお話」@ブックギャラリーポポタムへ行きとても素敵だったのでお金を遣いたいと思い、どの陶器を買うか迷った結果の購入理由がうえの通り。しかもまだ奴をのせていない、でも悩んで悩んでそれに決めたのでそれにかかっている手間と同じくらい愛おしいと思っている。

青色の花火って昔はなかったね?

手帳に日記はたまにつけるけど、それでもここ1・2週間はあまりゆっくり振り返るすき間がなかった。2週間前に発症したぎっくり腰はようやく回復して、普通の生活ができるまでに戻った(まだ少し不安だし違和感があるけれど)。健康第一、身体が資本です、と心から思っているし言いふらしているのに、なぜこんなにも体調を崩してばかりなんだろう。「さあ、やるぞ」と元気とやる気を持ち合わせている期間が普段の人生のうちで非常に短く、やる気がなかったり元気や体力がなかったりする。言い訳にしたい訳ではないんだけど、もしくは身体がそれを言い訳にしたがっているのか。運動しなくなってからお腹周りがぷにぷにしてきたので、夏休み明けくらいには復帰したい。
本がいつまで経っても読み進まないこと、相変わらず英語やフランス語や必要な知識の勉強を怠っていること、太ってきたこと。あと健康を維持できないこと、これが悩み、というより自分の気に入らないところ。家計簿をつける、手帳をつける、たまには夜ご飯やお弁当を作ること。毎週末掃除機をかけること、洗濯物を朝干すこと、コーヒーを淹れること。"生活をする"ことができるようになってきたことが自分のうれしいところ。
30階から花火を見た。思ったよりも大きく見えた。窓から見える夜景の一部に花火が上がっていて、その全貌がここからは見えて、でも風景の一部でもあって、なんて贅沢なんだろう。打ち上げ音が聞こえなくても、上がって、咲いてひろがって、散って消えてゆく花火は美しくて、どうしても切ない。ぐっと泣きそうになる、のをこらえる。この気持ちは誰とも共有できなくていいと思う。隣に連れてきてくれた人がいるのにそれってずるいかなあ。しかも5つの場所の花火が見えたのよ。河川敷を散歩して、日差しが強くて雑草がキラキラしてた、そしてビールをあおりながらの夜景の中の花火。忘れられない記憶、ハイライトされる時間となることをその場にいて知っていた。
ここ1ヶ月のうれしいこと、腕時計を2本買う。特急に乗る。おみやげを買う。
J-WAVE聞いてたら流れてきた、今あんまり古くさく感じなくて、夏っぽくてお気に入り。眉毛細くて90年代顔だけど、その時代はすでに生きてるしそこで育ってるのでちゃんと自発的にかわいいと思う。でも顔と名前が見分けられなくて、多分覚えようともしてない。「あのペリカンさみしそう〜」って脈絡なく入ってくるのが好き。

みなと

死ぬ前に書いておく。覚えている、2016年6月17日(金)の12時からの昼休み。コンビニへご飯を買いにビルを出て、しばらくは日陰を歩いてそのあと日なたへ。晴れていたか曇っていたかは覚えていないけど蒸し暑かった。湿度が身体に張り付いて、むわっとした気温を感じて、ああ夏だ!なんて嬉しいんだろう!と心から喜びを感じたこと。夏の訪れをこんなにも歓迎できるのは初めてだ、もしかしたら歓迎したことがあったかも、毎年同じくらい喜んでるかも、それを忘れてるだけかもしれないけど。日焼けをするとすぐひりついて黒くなってしまうからイヤなのだけど、でも、もう梅雨が明けたようにギラつく太陽光を浴びるのとか、扉が開いて水中に出てきてしまったかと思うくらいの湿度100%の夜とか、そういう夏らしさが嬉しくてたまらない。これが生きているうちの最期の夏なんじゃないか、と疑うくらいの輝き方と感じ方。素晴らしくて死ぬんじゃないかと思う、前置きをしたのはそのため。マイミュージックをかき集めて夏のプレイリスト作ったし新しい水着を買ってみたりした。去年は盆踊り運が高くて行く先々で盆踊りしていて何度も輪に入ったりしたけど今年もこりずにそうしたい。浴衣着て花火見に行ったりしたいし短い服着てプールや海へも行きたい。現実、予定はほとんどなんもなくて欲望だけが突っ走ってわくわくしているだけなのは知ってる。すべて叶わないとしても、そしたらスイカでも食ってればいいでしょ。二の腕が日光を浴びたり膝小僧が風を感じたりすることが、夏来たなあって思うこと。
「夏を感じて嬉しかったの初めて」って話をしたら「俺毎年そう思ってるよ」と言われて人生損してたのかもと思った でもいいんだ、最近やっと(わたしが思う)人並みの一人暮らし生活を一人で回せるようになってきたと思っているし 洗濯する、掃除機をかける、自分のために自分で調理する、火を通したものを食べる、1週間の予定を立てて生活する、家計簿をつける、節約を心がける、2WEEKのコンタクトレンズを使う、パソコン用の椅子と机も買った 1年とか2年前のわたしだったら絶対しようと思わなかったしできなかったことをしてる とかそうやっていつもどおり、反省せず甘い肯定ばっかりしてる 他人の入る隙がないようにしている、誰にも頼らずに強く生きていけるようになろうと心がけてようやくそうできるようになったのだけど。
突然、なんだか強く惹かれてしまう曲というのが幾つかあるうち、この曲もそうだった。ラジオで、スカートの澤部さんは「目を閉じてゼロから百まで やり直す」という歌詞が一番好きだそう、と言ってたけれど、わたしは「汚れてる野良猫にも いつしか優しくなるユニバース」が一番好き。

DATE

5/3に岡村靖幸SPRINGツアー2016「幸福」@神奈川県民ホールを見に行ってから、恋に落ちたようになって、岡村ちゃんばっかり聴いています。去年のフジロックで初めて見たときも「初めて黄色い歓声が出そうになった」という自分としては衝撃的な体験をしたのだけど、今回はほんとに本格的、「恋は瞬発筋でスマイルしちゃうんだぜ」ってまさにこのこと、ライブ中終始にやにやしっぱなし(普段使ったことない表情筋を使っていた)、会えて嬉しいと本気で思った、ときめきすぎてハートが溶けると思った、もうかっこよすぎてしぬと思った、岡村ちゃんがこっちの方向を見て手を挙げると反射的に手を振ってしまうのだった。中学とか高校の学生の頃はこうやってアーティストに恋する気持ちがあったけど、結構久しぶりなので、驚いてもてあましてる。顔とかあんまりタイプじゃないはず、その動きってほんとにかっこいいの!って疑問に思うこともあるのだけど、いや結果かっこいいじゃん、っていうのに落ち着くのでわー恋に落ちてる感じだなーと。こうやって必死に冷静に分析しようとしてるところがわたしらしい。不思議だなあと思うのは、わたしが生まれる前の今のわたしと同い年くらいの彼の歌を今こうやって聴いて、今年2016年に出した最新アルバムの曲を24も年上の50歳の彼が歌っていて、それを同じように聴いてる。圧倒的に確かに、わたしの知らない時代を生きてる。誰かにとっての過去のヒット曲を新しく真剣に聴いてること。音楽ってそういうものなんだけどね。多分この調子だと近いうちもう1回はライブ行くだろうなあ、アラサー女性はジャニーズか韓流か宝塚かなにかしらにハマりだすっていうじゃん、それがわたしにとって岡村ちゃんだったら結構おもしろくてよい。「Super Girl」を歌って「自分たちしだいだぜー!」と煽ったあとのソロダンスでくるっと側転してて、ああ体現してる、すげえと感動した。自分しだいだぜ。

花柄が好きなおばあちゃん

今日は体調不良で会社をお休みしています。先週の金曜日からどうも調子が悪くて。今朝も身体が重くてダメだな、と思ったので、お休みとし通院しました。前にも処方してもらった漢方を14日間分も出してもらい(高かった)、念のため胃腸の薬ももらいました。花粉症の薬と目薬も処方してもらいました。お昼にはスーパーで買ってきたミニカツ丼も食べれたし、薬も飲んだし、今はベッドに入りながらコーヒーでも飲み、まあまあ持ち直している気がします。夜寝ている間、なんでか身体が緊張しているようで、足の筋肉が固まっていて痛い。思い当たる節はあるようなないような。発熱はないんです。先週の木曜日、2月の間ずっとかかずらってた仕事がすべて片付いて、早くあがってライブを見に行って、ちょっと気が抜けたのかもしれない。春、会社を辞める人が何人かいるようで、4月からまた異動を命じられたらどうしようかな、さすがに怒ってもいいかな、そんなことないといいな、欠員が出たところにあてられるって、季節労働者みたいだなって考えが気に入ってる。
今日はJ-WAVEをずっと聞いてる。TOKIO HOT 100が最近好きで、日曜日の午後家にいるときは必ず聞いてる。年末の年間チャートのときに寒いギャグを言ってるのを聞いてから、クリス・ペプラーが好き。suchmosがチャート1位を獲得したときは嬉しくて、一人喜んでた。「STAY TUNE」はラジオ映えする曲だ。
Meghan Trainorの「NO」をこの日曜日ラジオで初めて耳にして、かっこいい!と感動してApple Musicで何度も聴いてる、色気を放ちながら「今自分が必要としていないから」、という理由で強く拒絶する女はかっこいい。メロディーラインが延々繰り返すので何度も聴いてると頭おかしくなりそう(まだYoutubeにMVがあがっておらず動画を貼れないのが残念)。

日曜日、母方の祖母の米寿のお祝いで家族・親戚と食事会をした。88歳を迎える祖母は、耳が遠いながら持病のほか大きな病気はせず、元気にいて(生きて)くれている。今年中は大丈夫だと思うけど、来年はどうかわからない、灯油はもう一人で入れられないからお願いね、と言っていた。「いい人見つけなさいよ」とか、「子供を産むときはね」、なんてわたしの現実とは程遠い話をするのだけど、そういう、生活を何にも知らない応援は少し嬉しかった。
小さい頃に亡くなったのであまり覚えていない祖父のこと、同じ職場だったのだけど係長の前で足をこーんなにして机にあげてたのよ、とか、普通廊下では帽子を取るはずなのにつけたまんまでね〜、と悪い話を惚れた顔で嬉しそうに話してくれて、叔母さんから「お母さんは昔からトッポい人が好きなのよね〜」とからかわれていた。88年の人生の記憶。でもぎこちなくコップで水を飲む様とか、耳が遠くて周りの会話がわからなくて戸惑いキョロキョロしている姿は類人猿のようだと思った。失礼だけどそう思った、ごめんなさい。老いることについてのこのギャップを理解できていない。25年後とか50年後は、わたしも母や兄弟や子、孫を囲んでこうやって食事をする機会があるのかな。母の兄弟の家族が向かいの席に並んで座っていて、みんな顔が少しずつ似ていて、こちら側に座った私たちも多分そう見えているのだった。
誕生日プレゼントをもらって本当に嬉しそうにしてくれて、プレゼントしてよかったと感じさせてくれ、わたしが涙が出そうな程嬉しかった。誰も着こなせないピンクのラメ入りのキャスケットをさらりとかぶって裏ピース。その様子をみんなのスマホで撮られていて、おばあちゃん、こんな風に撮影会みたいになるなんて、初めてじゃないの、ってみんなで笑った。

sleep wrong

新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
一昨日(金曜)は夜中寝違えがひどくて、土曜・日曜とずうっと寝ていた。父と行くはずだったイベントも実家へ帰る予定もキャンセルしてしまい、3連休を棒に振っている。やっと寝正月(3連休=三が日)が訪れた感じ。風邪気味の体調の悪さも重なって、ほとんど外に出ていない。
目指すもの、目標が何にもない、設定することはできるかもしれないけれど、自分の内側から湧いて出てくるものでなく、からっぽな感じ。なんとなくしたいことややりたいことがあっても切実でない。一人のためだけに生きるのってこうやってしんどいのかもなあ、と思ったりする。
その人はいつに戻ってもきっと楽しいと言っていたけれど、それを聞きながらわたしは、少なくとも一年前なら、戻っても一緒だな、と思ってた。そうやって言えたらいいだろうなあ。わたしは、就職が決まってから卒業するまでの約半年間に戻りたい、そこなら何度繰り返してもいい、と話した。大好きなあの場所でバイトをして、頭ひねって卒論書いて、卒業旅行へ行って。
部の新年会の後、同期の男の子と日本酒を呑み直し、会社の愚痴ばっかり言ってたのだけど、瞬間"男"を感じさせるときがあった。わたしは"同期"としてしか見てなかったのだけど、彼はこんな色気を持ってるのか〜、と知った。その飲み屋でわたしは段差で転び、膝を打ったよ。
10月に白山眼鏡店で買った眼鏡が、プロダクトとしては大好きで本当に気に入っているのだけど、いかんせんわたしに似合わない。最近会社では、コンタクトに伊達としてPCメガネをしていることが多いのだけど、度付きのその眼鏡で出社したときなんかはたいてい会社の人に「疲れてる?」って聞かれるのだった。たしかにコンタクトでないときは多少気を抜いてるときなんだけど、それにしてもその頻度が高く、たしかにちょっと違った顔にも見えるので、相当見た目がよくない、似合っていないのだろうなあと思う。でも憧れて買った眼鏡なので、やっぱり憧れと現実は違うということを身に染みて感じさせようとさせているのかもしれないけれど、似合うようになりたいのです。模索。
クリスマスイブに前野健太のカバーを聴いてから、草津温泉への旅(年末は草津へ行きました)ではずっとこれをリピートしていた。石川さゆりのこのバージョンが好き。何度聴いてもまったく飽きない。「一度はなれた 心は二度と もどらないのよ もとには」

暇だとスマホばかり見ちゃう、なんにもないのに。それか眠くてずうっとだらだらしている。腐ってゆくようなもんだ。 なりたくないものになってる。