春は苦手

『LA LA LAND』を観た! (監督:デミアン・チャゼル)
「叶わなかった恋に、意味はあるのか?」という問いと、それに対するこの物語の答え。時の経過が知らされ、偶然彼と彼女が再び出会うまで、きっと出会うだろうとわかっていたはずなのにすごくどきどきした。ピアノを弾き始めてからの回想、「もし、あのときこうしていれば」の選ばなかった/選ばれなかったできごとの連続。素敵に出会っていれば、誘いを受けなければ、彼があの場所にいることができれば、それが大成功していれば、一緒に過ごすと決めていれば、そして2人結婚して子どもがいたら、2人の出会いから別れを見ていて、きっとその可能性もあったけれど選ばなかった道。(特に観客はこの出会いのシーンを期待していたはずだから、ここでその期待に応えるのがずるい。)ハッピーエンド/バッドエンドではなくその先、どちらがよい/わるいを見せたいのではなくその先へ続く生活の、そこでふと思い出される過去、決して叶わなかった想いだけどきっと意味があったよね、って抱き合うこともキスすることも言葉をかわすこともなくただほほ笑みあう。なんてそんなことあるかよずるいよ、と思わせるけどそれはもう、オープニングの炎天下の大渋滞の中で人々が突然歌って踊り出す時点で、「これはエンターテインメントでフィクションです」と大きくうちだして語り始めるのだから反論する術はなし。都合が良すぎるのはすべて「この物語はフィクションです」で解決。あんなに本気で憎まれ口をきく2人が本当に恋に落ちるのか不安だったはじめから、叶わなそうでもあったけれどその分、すっごく輝いて見えた時期、空も飛べそうな気分、ってよくいうけどほんとうに星空を舞い出したのには笑った。
これが「ロサンゼルスタラレバ男子」(主演:ライアン・ゴズリング)でも成り得るわけで、これもどちらがよりよいではなく、現実は物語は、視点やとらえ方や描きようでどうにでもかわる。仮定や仮想、想像の自由さと途方もなさ、可能性、光。


上のツイートを見てこれは早々に観ねばならぬ、と思って日曜夜映画館へくりだした。それにこの方々がもっと綺麗にそういうことを書いている。
わたしがこの題材が大好きだから今までの途方もなさ(星空のシーンとかね)をすべていいね!の評価に寝返らせてしまったともいえる。あとたぶんわたしは小沢健二のシングルを聴くべき。

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コドモ発射プロジェクト「なむはむだはむ」を観た。 (つくってでる人:岩井秀人森山未來前野健太
「長い毛 2」は毛の大冒険物語、これが毛でなくなにか主体性を持ち得そうな生き物であれば理解したり納得したりできるのだが主人公は「長い毛」。面白く観ていたものの前野健太が歌の中で「いらないよ 息つぎなんて」という。その瞬間”理解できないけどなんか面白いもの”から突然、それに感情移入してそれに成って「いらないよ 息つぎなんて」という今まさにその最中にいるモノの台詞に聞こえる。そこでこの作品は、ひとつの天井をつきやぶって軽々とその先へいった、気がする。子どもの自由奔放な物語へおとながぐいっと引き込んだ一瞬。そのあとも「夜は夢 朝に空 夜は海 夢の中」とつづく、隠喩の想像力。
あまりに意味をもちすぎ、与えすぎ、汲みとりすぎなんじゃないかわたしたちは、汚ないものとか変なこととか、自らタブーを作りすぎなんじゃないか、いつ大人になったんだろう、でも子どもと比べると"圧倒的に"、大人の側にいた。でも「爆発!!はい死んだ〜」ってな感じで死ぬことってあんな感じで笑えることだったかも、とどこか(どこ?)が知ってたかも。
普段ふつうに生活しているうちじゃあ、ああいう風に背筋がぞくぞく、わくわくすることってないので昂った、興奮した。Eテレでやってた特集番組も見てた、できないとかダサいとかカッコ悪いとかそういうの気にせずにただいいものを作りたくて、丸腰のまま全身で体当たりしてくおとなってかっこいい。
コドモ発射プロジェクト「なむはむだはむ」 東京芸術劇場

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身体は壊さず元気ですが春が苦手。花がたくさん咲いて好きだけど苦手。暖かくなるといつもどっかのネジが1本抜き取られたような不安な気もちになる。冬が寒さが恋しい。