3月のブルース

今を生きている歌だった。新宿の街、歩行者天国、開かれた空間。スピーカー1つにマイクとギターが出力されるというサウンドシステムで、目の前で歌ってるはずなのに公共放送のような、もしくは100年前か100年後のレコードが流れているような。スピーカーはとぎれとぎれになって途切れて、マイクを通さない生の声を響かせると反対側のビルから音が反響してはねかえってくる、空気が震えて今目の前で歌われる歌、今生きている人の歌だった。春だった。
2017年3月19日、"百年後、新宿で"と題された前野健太「百年後」発売記念ライブ、紀伊国屋書店新宿本館1階にて。本の表紙と同じ柄のシャツを着て、「新宿在住、前野健太です。」「前田健太じゃないのー」「サンシャイン池崎じゃないんだ〜」とかいう、通りかかる人の声。新宿という、たくさんの様々な人が通り過ぎてく大きな街で、その知らん顔とか呟きさえ全部歌にしちゃうような力がある。私の感想は毎度同じことばっかり言ってる気がするし、でもやっぱりいつもそう感じるのだった。飽きることはなくて、そうやって自分が現代に生きてることを確認しているようでもある。
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盆踊りはとても楽しく、新たな扉を開いた感がある。
JON(犬)&ごっこ社の銀座の恋マルシェ@CHAIRS。銀座のビルの2階へあがると、いや1階にいるときから、人の掛け声とそろった足踏みが聞こえていて、扉を開けたら20人弱の人が輪を作って踊っていた。真ん中には唄を歌う着物の男の人。今まで見たことのない少し変わった手つきの踊りで、でも輪を作って踊る人たちは振りを迷うことがなく、おそらくみな一度以上踊ったことのある人たちだった。主催らしき若者たちが内側の輪で廻っており、外側の輪にはおじさんやおばあさんもいる。
主催のにゃんとこさんのZINEを読むとこれは「郡上おどり」「白鳥おどり」という盆踊りだということがわかり、景気付けにSKY BLUEという甘〜いリキュールを飲む。踊り進むのを輪の外からずうっと見ていた。こういうときは恥を捨てて「踊らな損!」と思う人間なので、どうにかきっかけを見つけコートとバッグを端の方に置かせてもらい、8曲目「世栄」から輪に加わる。「どっこいしょ!」という掛け声でどんどんテンポが速くなって踊れなくなってってつい笑う。ほんの数曲だけだし振りも見よう見まねであってるかわからなかったけど大勢で一緒に踊るってのがなんとも楽しかった。最後にはたぶん30人くらいの大勢の輪になった。もっと踊りたいし踊れるようになりたい。郡上おどりの徹夜踊りに行ってみたいなと結構、8割くらい本気で思っている。錦糸町河内音頭も今年こそは絶対行くゾ。
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今日は会社へ休日出勤しようと思っていたけれどどうもやる気が出ず、というかまったく行く気にならず、というか行きたくなくて、やめにした。行かないと片付かないことが山ほどあったんだけれど、どうも面倒くさくて。
ぜんぶ春のせいにしたい。周期的なものでもないのに、意味もないのに泣きたくなったりするのは健康的でない。「死にたい」と思うことは未だにあるし、27年生きてきたから余計、もうほとんど知れた気もする、今後数十年生きて得るものってもちろん知らない感情もあるだろうけれどだいたい想像がつくような気もする。過去と変わったのは、そう思うときはたいていどこか調子が悪いときだと気付くようになったことだ。気分が落ち込んでいるか、身体の調子が優れないか、疲れているかのどれかだ。
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ちょっと悲しみややるせなさや怒りを感じる出来事があり、整理するために同じ内容をいろんなところにいろんな手法で書く。
きっと何かを信じて生きていくことは強くなることなのだ。そして何かを信じないと生きていけなくなるくらい人って弱い。信じていること・いないことがそれぞれ良いこと・悪いことではないし、そうするかしないかは選択の自由があるはずだ。もしかしたら信じることのほうが楽で生きやすいのかもしれない、迷わないから。ただ、必要としない人に無理やり押し付けるのはどうかと思う。他人のそれ(信念)を見下したり馬鹿にしたくはないと思っている、できるだけ、なぜならわたしが自分の大切にしているものをそうされたくないからだ。たとえ大切にされず嘲笑われても関係ないと思う、無理に理解される必要もない。ただ、たぶんその価値観が近しい人たちと過ごすほうが楽しいと思う。