さえぎるもの、さえぎったものが写すもの、予感、について?

11月14日(水)、ヒッピー部『あたまのうしろ』を観た。まだ上演期間中なので感想を人の目につくところに置くのはあまりよくないかなと思ったけれどあえて。どうか私を説得してほしい。
これは"演劇"でやる必然性があっただろうか? 「必然性」について問うのはおこがましいしそんな資格もないんだけれど、それを感じることができず冗長に感じた。演劇以外の手段、たとえば美術館でのインスタレーションや小説、映像、もしくは写真、といった手法を用いて語るほうが適切だったのではないか。演劇の、作られる時空間として、そしてそれが目の前で進行するものとしての特徴が生かされていなかったように思う。ああいった会話が繰り広げられることや、既成の文章を読み上げること、特殊な舞台装置を使うことの意図が(私の力量不足のせいも大いにあるんだけれど)うまく汲み取れなかった。F/T12の紹介文やインタビュー、当日配られたフライヤーの言葉で、舞台でやろうとしていたことは語られきっていたのではないだろうか。それらを読むかぎりは、考えてることが気になるし、おもしろいんじゃないかと思うのだけど。挿入される空間現代の音楽のほうが、やりたいことが明確に伝わってきた気がした。
もやっとしている。「わからない」と言って手放すことは諦めだろうか?単なる私の力不足だろうか?彼らの語りたかった主題を理解するまで至らなかったせいだろうか?