サンタさんがほしいです

「いつか実存を抜け出して超越した存在、概念みたいなものになりたいなあ、と考えていたけど、それって死であり思い出じゃんか」ということをまた、考えてる。この人生は、現在の身体性を経て、終いには私の望む概念という存在、過去の記憶や記録、になっていつかは忘れられるのだから、それは救い。ある程度先の未来までは、私は自然にこうやってなにかしらを書き残していくだろうから、果てにたどり着くまでに、つまり生きている間に、身体を有効に使う何かをすべきかなあ、と思ってる。頭や言葉で考えるほかに、身体に染み込ませる何かを。大学では今期、バレエの授業をとっていて、身体の各部位の動きに意識的になることって普段の生活じゃほとんどないからそれを思い出せるのはうれしい。今までの経験をたどることをしている。身体が感覚を覚えているのは内からこみあげる感動みたいなのがあるね、私の過去がちゃんとあったんだぁ、って。
フェスティバル/トーキョー12の『光のない。』@東京芸術劇場プレイハウス を観てきました、が、良さがよくわからなかった。F/T12のTwitterアカウントが演劇関係の知識人の「光のない。」を褒め讃えるツイートを流してくることで気付いたのは、新参者の私は全然踏み込めないわぁ、ということ。F/Tの主催プログラム、公募プログラムを1つずつ観て、主催がある目的を持ってどんな演劇を集めたかったのかになんとなく気付けたし、ちょっと難しすぎたなあ、と素直にお手上げです。演劇の伝統や現在についての知識を何も持ってなかったし、もともと何に関してもわかりやすいものが好きで、考え込むことは苦手だ。
よくわからないなりの感想。すべての登場人物が意味をとりにくいあの変わった調子で最後の最後まで発話するのを聞くことは、なかなかの苦痛だったこと。聞き取った言葉を頭の中で再解釈するのはひどく難解な作業だった。戯曲を文章のまま読みたかった。発する言葉は翻訳された台詞であって、しっくりくる日本語ではなかった。はじめの、何度も反復される主体がわからなくなる芝居は見ていておもしろかったけれど、何を意味していたのかはわからず。あるとき少しの間だけ、変わった調子で話しているのがイントネーションの少ない福島の方言に聞こえて、はっとした。あからさまに、ヘリコプターが上空から近づいてくる音が鳴って、震災のニュースで流れていた映像が浮かび恐ろしいと感じる。明らかに私は生活の中で2011.3.11を忘れていっていた。今回の題材に触れることで思い出した。