強い風

そのとき私は恋をしていて、自分のためだけの日記をインターネットの奥底にしまっているけれど、そこにそのときわたしが放った告白の台詞も書いてあった。すっかり忘れていて、記事をたどっていて思わず「まじかあ」と呟いたけど、その言葉は相手からもらった台詞と同じだったもんでなんか笑ってしまった。恋をするセンスはまったく自信がなくて今も変わらない。一時の幻想や迷いなら早く醒めてくれとさえ未だに思う。 7年前わたしは21歳で、就活中で、そのときは都内にいた。その日一日帰れなくて歩いて友達の家に行って泊まって、次の日電車で帰った。そのときの日記を読み返してもたいそうなことは特に思っていなくて、でもその数日間で見た断片的な光景は、写真を撮っていないのによく覚えている。いくら想像して想いをめぐらせても決して当事者へは届かないけれど、そのとき生きてた人が体感した空気は、それぞれが今も覚えているんじゃないかと思う。
無理がきかなくなってきたと感じている。身体というよりかは、自分に嘘がつけなくなってきた。身体はいいんだ、例えば徹夜とかオールとか、あんまりしないしそうしたいとも思わない。それよりかは、自分が納得いくものにしか時間を遣いたくなくなってきていて、わたしがいてもいなくても同じなような会社の飲み会とか気の進まない集まりとか、終わった後すっごくやるせない気持ちになるようになった。数年前、社会人になりたてのときは、そういうものも通るべき経験だと思えていたし誘ってくれること自体がありがたいことだと思っていたけれど。バンドのライブも、最近それ自体行かないけれど、前なら知らない人たちもなにかいいところがあるかもなと思って見ていただろうけど、今はそれすら叶わなくなっているような気がする。長く生きて、自分の時間の有限性も感じるし、我慢ができなくなってきている。前からそうであった人にとっては、きっとこんなのたいしたことない、当たり前のことだろうけれど、わたしにとってはこの変化は老いである。逆に、そうでない、自分が思っていることをダサいままそのまま言葉にして話せたり、共通の興味を持った人たちと楽しく過ごせる時間があることはありがたいことでもある。
去年の3/18、銀座の恋マルシェで郡上おどり・白鳥おどりという盆踊りに出会ってから、1年経つ。ようやく1年。この1年間は怪物のような年だったと思う。自分が怪物のようだったか、興味の対象が怪物だったか、言い切れないけれど印象としてなんとなく。普段、未来のことは予測したり妄想したりと考えないタチだけど、ここまで、なにか新しいことに入り込む、夢中になるとは、まったく考えなかった。知らない未来に来た。どこに行くか、という目標はやっぱり持っていなくて、ただ圧倒的に「楽しいこと」が目の前にあり、それにずっと魅せられて過ごしてきた1年だった。今まで興味もなく何の評価もしてこなかったものに価値を見出すようになったこと、それに今の自分が意義を感じていることは、自分にとっていいことだし、そう変わった自分にありがたみを感じている。こんなにも変化することがあるんだ、という事実は、これからを生きていくうえで一つの希望とならないだろうか。まだわからない。
他人に対してのハードルが少し下がっただろうか。特に、懇意にしてくれているよく会う数人の友人たちのおかげで。自分はもっと、他者にとっていい存在としてありたいという理想があったものの、そこまで届かない、現在の自分について話すことができるようになった気がしている。理想は高いんだ、生活感のない暮らしがしたいし、欠くところがないような仕事がしたいし、完璧なように見せたいし怒ったり泣いたりしない、浮き沈みのない穏やかないい人でいたい。でも親しい人に対してはそこまで気負わなくていいのかな、わたしも不完全なようにみんなそうなのかな、と思えるようになったのは、自分の今まで生きてきた人生においてかなりの進歩であるように思う。それを実現できることによって、他人に与える印象が変わっていったりするかな、と考えている。
"こんなに消耗して暮らしていかなきゃならないんだろうか"、というのを、ここ最近考えている。一時期と比べれば消化できうる仕事量だし、正直100%の力で日々頑張っているとは言えないけれど、少しずつ、削れていくような感覚。月に1度は体調を崩しながら会社に通って、生きていかないといけないものなんだろうか。目標の無いまま生きることの限界?一日を無事終えられたことをありがたがって、自分を褒め称えてあげないくらいには、疲れを感じる日々。
1/28、七針へ麓健一/澁谷浩次を観に行った。「輝きの向こうから 醜さの向こうから 胸の奥へと走り抜けるもの」声を張ってそう歌う麓さんの歌声や姿がものすごく尊く見えて、見惚れていた。