生活といううすのろがいなければ

いっつもなぜかよれた居酒屋に入ることが多いのだけど、そんないい感じの居酒屋に入ってほろ酔いでとりとめもなく話をするのがよかった。わたしはすこし甘えている。しっかりし過ぎ、考えて話し過ぎじゃないか、それでわたしが不自由していないかと心配される。たしかにそうだよね〜と頷く。これがわたしの性格なんだと最近は自覚できるようになってきたけど、もっと意図的に他人との距離を縮めることも必要なんじゃないかとは思っている。だからお酒が必要です。
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「NO MUSEUM, NO LIFE? -これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会」@東京国立近代美術館へ行った。この展覧会はパンフレットのデザインがかっこいい。よい意味で今までの展覧会らしくなく、興味を引く。美術館についてA to Zでインデックスを作り作品を並べている。陰翳礼讃展と比べると少々地味であった気がするけれど、考えるきっかけとなる/引き金を引くという点で良かった。
「N」-Nude/裸体のコーナーでは、裸体をモチーフとした絵画/写真/彫刻が1スペース(3方向の壁)にずらりと並べられていて、そこでは隣にキャプションがなかった。絵画を見るときって見る前後に答え合わせのように隣に貼られたキャプションを見遣るけれどそれができないのは、モチーフに重点を置くため作品にあえて匿名性を持たせるということ。萬鉄五郎ピカソもなにげなくその面を構成していて絵画に価値があるほどにそれを勿体振ってしまいそうなところだけど、その思い切りはよかった。果たしてこれはほんとうに、同じ人間の身体を描いたものなんだろうか?なんて。
わたしは国立国際美術館/京都国立近代美術館から出品されるデュシャンを楽しみに向かい、デュシャンの作品はいくら美術館へワクワクして行ってもカタログに乗っている写真となにも変わらないのだけど、それでもやはり、台座に並べられ適切な照明を受け影を作り沈黙して、他の絵画と並んでいるレディメイドは概念として最高なのだった。卒論に奮闘していた過去を想う。美術館の「温湿度計」が陳列されているのもまるでレディメイドであった。
展示空間のところどころには幾つか窓が開いていて、向こう側で展示を眺める人々が枠の中に見える。ときにその窓は額縁に入っていて、あからさまにそれはひとつの絵/写真のようになりうるのだった。非常にわかりやすい装置だけれどだからこそ面白い。現代のビデオ作品に多く人が集まっていたのが印象的だった。口語的でわかりやすいからか。おそらくヴィデオが盛んだった時代の、「植物にアルファベットを教える」様子も最高だった。いつか誰かが動物に言葉を語りかけ躾けることを始めて人間の友のようになったのならば、植物もそうなりうるかも、という可能性に賭ける感じがアツい。よい言葉をかけ続けると植物は元気になる、という噂を聞いたことがあるしいずれ実践してみたい。
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松本は駅から街へ出た途端、あ、空気がきれいだ、と感じて、城と湧水に誇りを持っている、感じのよい街でした。そして何より松本城が素晴らしかった。美しかった。3日間の旅行のうち3日とも城を眺めに行く、という惚れっぷりだった。好きなものを認知する旅であった。お城。湖(水のある場所)。温泉。銘菓。おみやげ。喫茶店。マグカップ。日本酒。
お城は良い。歴女ではないが城は好きで、今回の旅行先の決め手となったのもお城があるからだった。わたしにとって目的地となりうる。城は、どこから見てもかっこいいのが、権力の象徴として威厳があって良い。どこから眺めてもかっこいいのに幾らか払えば中に入ることができ、最上階から権力者が眺めていた見晴らしのよい景色を見渡せるのもよい。天守閣内の急な階段を昇るたび、着物を着ていた昔の人はどうやってこれを登ったんだろう大変そう、と考える。現存木造建築の松本城は、400年も前からそこにあったということで、それを中に入ってみたり外から眺めたりして、歴史というものをより地に足のついた、いつもより身近なものに感じる。という具合。