ある旅行の手記(8月)

池の水の落ちる音を聞いてる。ときおり蝉が窓にぶつかる音がする。
誰かが私について想っているかどうかをLINEなどの文字・表象に頼ってよいかどうか。ひとりの時間、ぼんやりとしている時間、想いにふける時間が長いほどその人のことをよく思い出してしまう。恋とはエゴであり心の暴走なのだとわかっているのに。所有欲が大きくなく、でもその人のことを想うと舞い上がる気持ち。
近くの露天風呂へ行った。天井は木造で、空も外も見えなかったけれど外気温と、鈴虫の鳴き声がする。何より露天は最高なのだった。最高、至高、と思いながら浸かる湯。
温泉に行きいろんな年代の女の裸を見ることは非常に感慨深い。個体差はあれど、一度は通ってきた身体、鏡に映る現在(いま)の身体、いつか訪れるであろう身体。過去を想い来たる未来を想うよ。年を重ねてゆくことは何かを得たり失ったりすることだと漠然と考えていたけれど、もしかして”生まれてから死ぬまでで有り続けてそれ以上も以下もないのではないか”、何かを失った分何かを得ていて、その逆も然り、増えたり減ったりすると思われたそれは、いつもイコールなのではないか、と思いつき、切なくて泣けてきて湯で顔を洗う。移りゆく水面のように切ない。通り過ぎてきた発育途中のウブで曲線のゆるい。母としての。何十年も生きた器としての。裸も恥ずかしくなくなったし、浴場に持って入る白いタオルの扱い方も、数年前と比べるとましになったものだ。男を知らなかった(知らない)裸ってきっとなんて素敵だろう、と。
今日食べた馬刺しは東京(のニュー浅草)で食べたそれとはまったく違って、魚の刺身のようにやわらかで、生臭くはないが、獣を、生き物を喰っている気がした。美味いのよ。酒は美寿々(みすず)と積善(せきぜん)。積善は生酒で、生酒はちょっと苦手なのだった。ほろ酔い。いい店の基準(私の)には働く人の感じのよさが入る。いい店だった。
長野のオジさんは険しい顔をしている人が多い気がする(でも優しい)。
今回の旅行にて、私は、自分はツイていると常に思っている、割とハッピーな人間であるということに気が付きました。運って比べようがないし。人生は常によい方へ向かっていると、信じている。
今年の盆踊り運はヤバい。
遂に日本名城100選のスタンプラリーを始める。
武者鎧のおじさんと、いい写真が撮れた。早く自慢したい。
明日もおみやげを買う。諏訪湖ダックツアーへ。おやすみなさい。
原文ママ