あじさいの話

昨日から身体に現れている症状がちょっと心配である。家族には未だ言えていない。どこの病院へいつ行こうか悩んでいる。ガチで不健康な感じは情けなくて笑えてくる。コポコポと音がする。 先週は気分も体調もかなり落ちていて、会社の先輩方によく心配してもらった。表情がなく鉄仮面のようだったといわれた。いつも通りに生活ができない、早く歩けないし早く話せない。何も考えたくない。季節の変わり目だとしても相当に落ち込んでいた。飲みに誘ってもらったりタクシーの運転手のおじさんが陽気だったりで少し元気が出たけれど、明日からのことを考えると憂鬱だ。気持ちではいくら大丈夫だと思っていても身体に出てしまうので、よいものかわるいのか。昔とあまり変わらない。
この前の小笠原震源地震は怖かった。揺れが気のせいでないと気付いて、周りの人と一緒にざわざわして、わたしは幾つものアプリで地震情報を調べて、でも隣にいた人は結構のんびりしているように見えた。わたしは自分が考えている以上に3.11の地震の恐怖に今も脅かされているのかもしれない。だって本当に怖かった。 よく飲みに行く会社の先輩たちは、酒を飲み始めてしばらく放っておくと、4回に1回くらいは必ず3.11の話を始める。それぞれがそれぞれのその時の立場や思ったことを話す。みんなあまりいい思い出じゃないみたいだし、辛かった過去である気がするし、多分もうみんな話し飽きてるし聞き飽きてるはずなのだけど、それでも話し始める。
いま住んでいる街は、大きい通り沿いにあじさいがたくさん咲いている。大きな家の庭や軒先にも咲いている。あじさいがほんとうに好き。あじさいを見かけるとその花が咲いたように胸がいっぱいになる。見ている間だけ。色あいが美しくて切ない。ガクが色づいているなんてフェイクなところもいい。あじさいの季節は鎌倉へ行きたい。
"たとえ恋をしていたとしても"、それに気づかないふりをするのがわたし。まず、"たとえ恋をしていたとしても"だなんて予防線張ってる時点でかなり弱虫な感じである。本気になったりその感情に振り回されたり、周りを気にしたり、傷ついたりするのがこわいのである。だから「ラブ・ストリームス」のサラの愛情と狂気が恐ろしく、羨ましかった。"愛は流れのようなものよ。決して絶えることはない。"自分の弱点ばかりよくわかるようになる。長女らしい性格で人に甘えられないところ、強がるところ、ちゃんとしたがるところ。人に弱みを見せないところ。頼らないところ。抱え込むところ。中身がぐじぐじしてて気持ち悪いところ。罵りや呪いの言葉に滅法弱いところ。向上心がなくて継続できないところ。追い込まれないとやらないところ。真面目すぎるところ。変なプライドが高いところ。嘘をつくこと。
男の人とこんなにもわかりあえないもの、と気付いたのは最近。人と人とはわかりあえないものだって知っていたはずだけれど、もっと近しいものだと思っていた。未だによくわからないけれど、こんなに違う生き物なんだと、やっと知った。
今年の初めにスーパー銭湯へ行って、様々な女性の裸を見た。子どもの平らなまっすぐな細い裸を見て、すごく懐かしかった。わたしはもう25歳だけど、女性らしい体つきになったのはわりと最近な気がするし、まだ人生の半分以上はああいう子どもの身体だったのだ。やっとこういう裸にも慣れたものかな。
今日はTonofon festival 2015へyumboを観に行った。yumboはリハで「さみしい」を演奏し、「石が降る」「薬のように」「鬼火」「悪魔の歌」の4曲を。素晴らしく良いライブだった。高柳さんは見るたび、曲が変わるたび印象が変わる不思議な人だ。歌の調子がひどくよかった。仙台のワンマンへ行きたい。フェスは普段交わらない人たちや音楽が一堂に会す場所でそこに価値があると思うのだけど、交わらないほうがいい人やものたちもあるのではないかと、少し思ってしまう。わたしが言葉に弱いだけだけど。ひとりの人のささやかな喜びが、どんなに情けなくても格好悪くても、その人にとって大切であったら、嘲笑われることなんて許されないのではないかと。(嘲笑うことも自由なのだけど。)知り合いや顔見知りの人がたくさんいるライブ会場はこわくて、サングラスをかけていた。cafe couwaのスコーンはスコーンらしくひどくぽろぽろとこぼれて食べにくかったけれど美味しかった。昔好きだった人に久しぶりに会って話をした。彼は見た目がほとんど変わっていなくて、わたしは変わったねと言われた。15分くらい立ち話をして、いつかまたどこかで会いましょう、と言って別れた。わたしは最後のアンコールが終わると躊躇することなく会場を出て駅を目指したし、一番早く帰れる電車に乗って帰った。自分の過去とその過去で出会った人たちと、どう向き合っていくべきなのかわからない、ふりをしている。