「悪さをするには しなやかなからだがなくては」

"さみしいところへ行きたくて"、旅行したことを思い出す。 年末に宮城・東鳴子温泉へ行ったのだけどその願いはきちんと叶って、夕方から向かう車窓の外は真っ暗で不安になったし、駅から旅館へ歩く道も殆ど人に会わなかった。静かだった。宿は湯治宿で必要最低限の設備しかない古びた旅館で、酒を買いにコンビニまで歩く道は街灯に照らされるあかるい雪と、時たま通り過ぎてゆく車と、夜ご飯を食べた赤い屋根の焼肉屋と、食料品生活雑貨諸々を売る個人店と。なぜこんなにサンクスに安心してしまうのだろうと思いながら。いつもの靴、いつものマフラー、いつものコートはブローチをつけて、帽子とその日のために買った手袋と。温泉にも何度か入った。石油臭のする湯に浸かれば風呂を出た後も肌から同じ匂いがする。明日のだいたいの計画を立てて、ビールと清酒を飲みながら、2014年はたくさんの人がわたしを通り過ぎていったなと、天井を見てぼんやり思い返した。
次の日は観光地を周り、夜は年末で賑やかな仙台の街を歩いた。光のページェントは今まで生きて見てきたイルミネーションの中でいちばんにきれいで、消灯/点灯の瞬間は特にすばらしくほんとうに涙が出そうだった。雨でぐちゃぐちゃになった遊歩道を端から端まで歩いた。
その夜を思い出すのは、"さみしい"と思うことが足りないのではないかと思うから。始めてから半年間、一人暮らしはすばらしく快適で、足りない暮らしながらも健康的であるし満足しているので、でもそれを人に話すとなんだか虚しく思えてくる。お正月に、近くの駐車場まで送ってもらって数日間一緒だった家族と別れてすぐは、少しそう感じたけど。むしろその虚しさが"さみしい"気がする。いやそういうことを言いたいんじゃない。 自分でも知らないうちに、自分の感情を隠して見えなくして無いことにしていることがわたしはよくあるので、それをちょっと心配している。
※しょうもねえ休日