海へ行く理由

2015年もよろしくおねがいします。2015、というのは知らない遠い未来にきてしまった感覚になるね。
大学のサークルのライブだった。友達が初恋の嵐前野健太を演奏してくれ、わたしはうれしかった。ずっと前、大学に入ったときから、サークルではバンドのコピーをしているのだけど、改めて、不思議なものだと思う。コピーなので目の前の人が作った音楽ではないのだけど、知ってる/聴きなれた音楽が目の前で演奏されるととっても楽しい。音楽って目に見えなくて、楽譜はあるけど触感を伴って残るものではなくてでも、そこにいる人たちみんながそれを聴いて共有するし、ときにガツンと心に響く。WeezerNUMBER GIRLゆら帝もホンモノのライブは見たことなくて、音源を聴いていると先輩や同輩のかっこよかったライブを、思い出す。当たり前のことを確かめて感動してばかみたい。 18ではなく25のかれらが前野健太の「ファックミー」を演奏するのがよかった。(きっとそれぞれいくつかのファックを経験していて、「ファックミー」ということばにその歌に、経験や思い出の何かしらを想像し考えているだろうから。個々の思い出は決して共有されないけど、思い起こすという行為が、音楽が演奏されることによって同時に行われるから。という非常に下世話なことを考えつつ。)
1/7(水)昆虫キッズの解散ライブを観に行く。想像以上にしめっぽくなく、でもたしかに終わりなのだとたまに感じさせながら、大勢のお客さんが集まって、解散ライブは行われていた。数年前にWWWで観たライブがすばらしくかっこよくて感動したのをよく覚えていて、昆虫キッズはいま存在してるバンドの中で一番かっこいいな、ということを、たまにライブを観るたびに思っていた。でもそれからライブへは行っていなくて、音源は買っていたけれど。だから久しぶりにライブを観た。アンコールの最後の曲は、そう決めていたという「裸足の兵隊」だった。昆虫キッズは一度サークルでコピーをしたことがある、「裸足の兵隊」も演奏した。ベースラインを聞き取るため、曲の構成を覚えるために何度も聞いたし演奏したんだけれど、4人ともてんで別々なことをやってるのになんで1つの曲になってるんだろう、って不思議で大好きだった。それを鳴らせるのが昆虫キッズだったんだなあと、あらためて思った。「裸足の兵隊」のアウトロで、4人が何度もキメて音を鳴らしていたときに、そうならないことはわかっているのだけど、この瞬間がもしかしたら永遠に続くんじゃないかな、って夢見てしまった。高橋さんは声帯を痛めたそうで苦しそうだったけれど、もし20年後くらいに外国のバンドみたいに昆虫キッズが再結成したときは、もしかしたらこんな感じのダンディな歌声を聴かせてくれるのかもしれないと思わせた。こうやってバンドって終わるんだ。
岡野大嗣さんの「サイレンと犀」を読み進めている。いままで短歌を読むとき、そこにあるのは新しい視点や驚きだった。時折共感と呼べるような、自分と重ね合わさる/重ね合わせたいような歌があり。でも彼の短歌はわたしにとってちがった。わたしは彼の歌におおきく共感がある。見たことも経験したこともない情景なのに、そこに自分をみてるよう。いえ本当は全然違う、わたしじゃないものだとわかっているのだけど。彼の歌はとても近い。(Twitterで彼がsyrup16gに言及していて、シロップが好きな歌人なんているんだ…と嬉しかった)彼の読む感情とか、その風景。とるにたらないようなことなのだけど、そこにことば及んで、情を見つける。世界を祝福するよう。
「もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい」 岡野大嗣
やはりこの歌を読んでぐっと惹かれたのだった。「日本人が『死にたい』と思うことは、『今すぐにすべてを放り投げてハワイにでも行ってしまいたい』と同義なんだよ」ってどこかで言われて、そのことを思い出す。まだ大丈夫かなと思う。
夏だけはなぜ、これほどに人に共有され懐かしがられるのか。「秋は“深まり”、冬を“越し”、春は“訪れ”、夏は“終わって”いく。過ぎていく季節の中で夏だけが期間の終わりと共に語られ、寂しさを伴った感覚として記憶される。-このマンガが(象ラジオ的に)すごかった!2014 」 よい文章です。わたしは寒いの苦手だけれど、冬が一番好き、寒いしさびしいから。冷たい空気を切って歩くのとか、ベランダで凍えながら一服するのとか、あったかい格好をするとかあったかいものを食べるとか。真っ白い雪も好き。でも、この思いを人と共有できる気が全然しない。それに比べて夏。ああ人気者が羨ましい、というような気持ち。なぜなんでしょう。
ときめきは食べものだと思う。/ つまらない人間になったなと、過去のわたしは今のわたしを見たら絶対軽蔑するだろう。 / 真面目に仕事することは心に石を置くこと。男の人に負けないために。