雨の歌のつくり方

最後にわたしの隣で歌を歌った。「100年後」という歌、最近ライブのとき彼はいつも最後にこの歌を歌って、できそうにない約束を観客のみんなとする。「2114年6月29日、下北沢CLUB QUE、前野健太『雨の歌のつくり方』。」観客がみんな後ろを振り向いているものだからそのわたしには向けられてない、でも視界にはわたしが入っているであろう視線に緊張してしまって歌をちゃんと聴いてた記憶があまりない。普段彼が浴びてる視線が照明が明るいせいでよく見える。ほんとうにすぐ隣に、触れる距離にいる人をまじまじと見るのは恥ずかしくて、でもステージで見るより生々しくて人間ぽくてかっこいい横顔、代表Tシャツの袖のところ、ギターを弾く右腕にもじゃもじゃ生えてる黒い腕毛、3本しかないギターの弦が光ってる、歌い終わってうつむいた顔の、鼻の先へ垂れた汗、をぬぐってた、という断片的な景色を少しずつ、よく覚えている。"歌を歌っている"。
ライブ中、歌を聴いたり考え事をしたりしていて、手紙を、ファンレターを書こうかなと思っていたところだった。
開演までの時間、しばらくBGMが流れていなくて妙に静かで、登場する時もなんの演出もなく、拍手が鳴って出てきたことに気付いた。髪が短くなってて、「なんか最近髪薄くなってき」てるのかもしれないおでこが前よりよく見えて、サングラスもちょっと変わっていていつものより色が薄い。よく知らないけどこれって井上陽水みたいなんじゃないか?と思っていた。そのあとも、+15才の50才くらいの演歌のおじさんに見えたりパンチパーマの(あのカールはくせ毛だけど)悪いおじさんに見えたり大阪のおばちゃんに見えたりした(?)。歌いかたもなんだか歌謡曲か昔のフォークっぽい。演歌アレンジの「オレたち肉の歩く朝(オレらは肉の歩く朝)」も歌ってた(通常の2倍の拍手が起る)。
MCの前半は風俗の話ばっかりしてて、楽しそうに話すから男の人は笑って聞けていいけどちょっと困る。同年代の会社の人も楽しそうにそういう話ばっかりしてるし、あのくらいの年齢の人はそういう話をするの楽しいのかな、楽しいのだろうな…と、しょうもないなあと思いながら聞いている。
「友達じゃがまんできない」で突然、わたしと前野健太の歌、という関係だけではなく、ここにいる観客ひとりひとりと前野健太、そしてその歌、という関係が在ることに気付いてみんなどんな気持ちで聴いてるんだろ、と考えてみる、わからないけど。前野健太は男性SSWだけど観客には男の人も多い。ぎっくり腰をしたそうで、「途中くずれ落ちるかもしれません」と笑って話してて、ついに寝転がりながら歌ってた「豆腐」。あの人ああやって部屋で寝転んで練習してたんだなって、部屋が見える気がしてよかった。田村隆一の詩「きみと話しがしたいのだ」の朗読からの「マン・ション」。朗読は、カバー曲を歌うよりたどたどしくて。サビの、男女のあのマンションについての思いがこんなに違うこと、に初めてちゃんと気付いた。99年前の歌のカバー。「100年後にはみんないなくて、…それって救いですよね。」と話してた。荒木一郎の「個人的なCMソング」を本編の最後のほうで歌っていて、いまの彼には「終わり」の意識があること。新曲の、「タクシーのドアが閉まって 季節がちょっとめくれた」という歌詞が好き。歌い出しを「雨も一緒に」と間違えて何度か歌い直した「雨の降る街」。ついこの前、わたしは雨の中を散歩したばかりで、それが歌になっていた気がして感動する。
「恋の歌」から「男女の歌」、いまは「街の歌」の人だろうかな。
隣にいた時、ほんとうは緊張しながら「何でこの人はできないだろう約束ばかり歌うんだろ」と思って切なくて涙が出そうで、かわりに鼻水が出そうで必死にこらえていた。かっこよかったな、ちょっと腰掛けてた椅子が、ステージに戻っていったあとも少し温かかった