よひら

6月6日(金)、吉祥寺バウスシアター山本精一のライブを観に行った、素晴らしかった。「山本精一のひとり爆音上映会」。音楽だった。この前発売されたインストアルバム『LIGHTS』の1曲目の「Thousand moon」をYoutubeで初めて聴いたとき、「死にゆくときはこれを聴いていたい…」と想ったのだけれど、今回のライブはずっと走馬灯を見ているようで、私にとって彼の音楽は死のイメージとなにかしらの関係を持っているのかしら。ほとんど真っ暗にした映画館に牧野貴アンビエントな映像が流れて、聴き入ったり、ふかふかの椅子に頭をあずけて少しうとうとしたりする、夢と現実のあいだでどこかの風景や過去の記憶が思い出されては消えていった、その風景がどんなだったか、もう思い出せない。 爆音の迫力は素晴らしく、音によって上の方のスピーカーにオレンジの光が灯ったり消えたりしていてきれいだった。座っているシートも音の振動によって震えていて、iMAXのウィンブルシートよりも揺れていた。エレキギターエフェクターをほとんど触ったことのないのでああいういろんな音がギターだけから出てるというのもアンビリーバブルで、神秘だ。ライブの終わりに映像のクレジットの文字が大きく映し出されたのだけど、いま聞こえている音に比べて文字ってなんて無力なんだろうと思った。
バウスシアターにはほんとうに何年ぶりかに行った。記憶していたよりも会場は古くて、映画館としての営業は既に終わっていて、終焉を迎えようとしている寂しい雰囲気だった。高い灰色の天井を見ながら大学生のときに何度も映画を観に行ったのを思い出していた。「マイマイ新子と千年の魔法」に感動して二度も観に行った、オリヴィエ・アサイヤスを爆音上映で観て男を殺すタイミングを学ぶ、新作の「Clean」も観た。前野健太がすぐそこの道を歌いながら歩いた「ライブテープ」、ドラマーの男の子と一緒に観に行った「77 BOADRUM」、「グーグーだって猫である」もあそこで観た気がする。レイトショーを観に行くとたいてい終電に乗って家まで帰った。
FAIFAIの『へんしん(仮)』を観に行って、死にゆく女役の女優が「生きてないと感知できないものがなくなっていく」、というような台詞を云っていた。劇の最後、俳優3人が犬になって大きな声で吠えていて、狭い劇場に反響して「鼓膜が震えている」のを初めて体感した。「生きていることは前提」としてあって、それ以外の選択肢もきっと選べるはずだといつもなんとなく考えているけど、「生きていないと感知できないもの」を当たり前のように感じて享受して生きているのだということを改めて思い直した。その劇では、人間に生まれたことを「しょうがない」ことだと、話していた。  数年前まで演劇とは何の関係も持っていなかったわたしなので、身体を使って演じること、覚えた台詞を大きな声で話すこと、想像力を試される劇の見立てとか、それぞれの劇団の視点や見せかた、とか、そういう演劇の基本的なところがひたすらに面白くて、感動している。近頃はまったく映画を観ていないので、そろそろなにか観に行きたい。
わたしの家族は「おはよう」とか「ありがとう」「ごめん」「いってきます」「気をつけてね」とかそういうちょっとした挨拶をよく言う、いいことだとは思うけれど気にし過ぎ、言い過ぎなんじゃないかと思ってた、前に観たフランス映画では俳優たちはそういうちょっとした台詞なんて全然言ってなくて、それらがなくても成立する関係のほうが素敵なんじゃないかって。でも映画やドラマやそういうのってフィクションで、物語や限定された尺の中でただ単に削られてるだけなのではと、ついこの前思いついた。そういえばフランスへ旅行したとき、想像以上に、フランス人は「Bonjour」や「Pardon」と言っていた。
あじさいの咲く季節が来ている。毎朝自転車で走る道にもあじさいの花が現れてきている。多分2年前くらい、わたしはあじさいについてたくさん考えたり想ったりしていたようで、どんなことだったか具体的なことは覚えていないけどそのつよい思い入れがいまあじさいを見てもぼんやりとある。いろんな色で咲くから好き。花を見てどうすればいいのかってよくわからない。あじさいは雨に濡れているのがよく似合うしいちばんその花らしい。晴れて太陽に照らされているといつもかわいそうと思ってしまう。