「待つ」ということ

今週も辛く長い1週間だった。「死にたい」「帰りたい」「やめたい」が頭を巡っていた1週間。Judee Sillの「500 miles」だけを聴いて電車を行き帰りした。体調のせいか冬のせいか。こんなのずっと続くのはさすがに嫌だ。未来のことが考えられない。
「 時間というものには、ふたとおりの数えかたがあるように思われる。ひとつは、一から始まってこれに、無限に一単位(年でも秒でもいいが)ずつ加えて行くやり方で、私たちはそのようにして、小刻みに未来を生きている。もうひとつは、たとえばロケットの打ち上げの時の秒読みのように、あらかじめ未来へ区切った時点へ向けて、一単位ずつ時間を消して行くやり方である。残り時間がゼロになったときそれが起る。未来が終るのである。戦争中、私たちに可能であったのは、ただ後者の数えかたであり、戦場から兵士が書き送る書簡の一つ一つは、このようにして消去されて行く時間の確認にほかならなかったのである。」『海を流れる河』石原吉郎
毎日カウントダウンしている。月曜日、週末まであと5日。あの電車まであと2分。お昼まであと30分。定時まであと2時間。眠りたい時間まであと1時間しかない。週末まであと3日。この会議が終わるまであと25分。午後の仕事が始まるまであと15分。週末まであと1日。終電の時間まであと1時間。1週間が終る。週末。金曜日の夜だけが、何時までも起きていられるし、土曜日の朝だけが何時までも寝ていられる。土曜日は1日が無為に終ってしまっても仕方ないと諦めて、チェックしていた予定も諦めて、部屋で掃除したり家計簿つけたり手帳に書き込んだりコーヒーをいれたりする。ひとり戦争なのかよ、はたしてこんなんでいいのだろうか。
「 一体、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何も無い。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷たいベンチに腰をかけて、待っている。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。私の待っているのは、あなたでない。それでは一体、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。 (中略) 眼の前を、ぞろぞろ人が通って行く。あれでもない、これでもない。私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰って来る二十の娘を笑わずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。」『待つ』太宰治
待っていないと言えば嘘になる。待っているのだ。どこかにひとりいて、誰かに声をかけられるのを待っている、友達でも知り合いでもない男の人でもないし恋人でもない。馬鹿みたいだけど、例えて言うと王子様みたいなものを待っている。そのくらい素晴らしくて頼りないものを。恥ずかしいし情けない、けれど待っている、待っていないと言えば嘘になる。漠然としていて淡くじりじりとした期待。例えば、幾度か素晴らしい時間に巡り会ったことがある。それは特定の条件にあるときではなく、でもまさにそれを夢見ていたというような、不思議な時間。そういう特別なものに出会いたいと思っている。
麓健一の『あるいはその夏は』が彼のCDの中で一番好きだ。このアルバムは「あなたはまだ そこで何を待っているの?」と訊く「WHAT ARE YOU WAITING FOR?」という曲で始まり、最後の曲「葬列」で「誰かが待ってる 誰かがあなたを待っている」という終りかたをする。「あなた」は待っていて、「でも」誰かに待たれている。ひとつのアルバムの中で「待つ」ことが円環となっていて(「でもある日気付いたこと すべてはつながってる」)、むなしく「待つ」人を自らの手ですくいあげる、こんな風に希望が射すこともあるのだ。

この日のライブを覚えている。これが最後の曲だった、ミラーボールが回り始める。ある人は、ある人は、と一人の他人たちを描写する歌詞、ミラーボールはきらきらとしてそこにいる人誰にも光をあてるし、歌と光は重なって、待たれている「あなた」はたくさんのわたしに重なっていたのだった。