湿地: 駐輪場はいつもじめじめとぬかるんでいる。

この1週間は毎朝起きて会社のドアを開けるまで、時には帰るときも、死にたいってずっと思ってて、でもこの死にたいというのは本当に死を望んでいるわけではなくてどちらかというとやめたいに近く、でもやめる気がある訳でもなく、安心の呪文のように、朝家から駅まで自転車をこぐときなんかに、五段活用させたりしてぐるぐると巡らせてた。という感じでただ時期的なものかと思うけど精神的に不健康、あと身体も全体が少し痛い、だるい、というあまり芳しくない1週間でした。夏に風邪をひいたときに体力失ったのかしら、ずっと疲れている。皮肉なことに働いてるときは気が張っているから平気である。過程が辛いってこと?
私は普段自分を外へ表現することに消極的であり、ときに罪の意識すら持ち、恥ずかしいことだと思っているのだ。人畜無害なものになりたい。身の回りの私物から好みや個性が滲み出て他人に知られることすら恥ずかしくこわい。なぜみんなそんなことして恥ずかしくないのか、ってよく思っている。多分私の気にし過ぎで、他人にとってはなんでもないことなのだ、もっと遠くの先のものを見ているのでしょうみんな。私がそう思うのは、全部裏返しで受け入れてほしく、認めてほしいからだろう、ということも認めます。わかりあえることなんてずっと前から諦めているつもりなんだけど。会社という社会に入って思うのは、「ほんとのこと」を話す必要って全然ないんだな〜ということ。今自分が感じ思い考えてる「ほんとのこと」を話して得なことってあまりない、それに別に話す必要もないし話したくない。映画監督の濱口竜介さんが以前、粘度や濃度のある時間としての会話には「聞かれている」という実感がある、といった話をツイートしていて、確かにそういう「楽しい!」と思える時間となる会話は人生の中で経験はある、でも圧倒的に少ない、聞いているだけじゃだめで話し続けているだけでもだめなのだ、こういう会話をもっとしたいものだなあと思うものである。
コーヒーマシンの前で踊り出す自分を想像する。フライパンで肉を焼き自分の肌や肉が焼かれることを想像する。私の想像って全然足りない。未来も痛みも何もない。ことばあそびが好きなのだ、デュシャンみたいなナンセンスなの。この日常が日常としてずうっと続くならもう死んだも同然だ。とか思ってしまうのでアウト