take and give

旅行へは行けなかったけど、女友達6人で集まった。 言葉にすると書かなくてもよくなる。書いたことを口から発するほうがまだよい。酒を飲んで、自分が言っていることの果たしてどこまでが本当か?でも、ちゃんと記録しておくために。周りは何も悪くない。 それぞれ数人で集まって遊んだり飲んだりはしても、みんなで集まることって本当にほとんどなくて(全員が集まったのは去年以来だったのではないか)、一堂に会すというのはすごく新鮮だし見回すとみんないるというのは嬉しい。
私は言った。「友達の誰かと誰かを引き合わせてこの二人ここの趣味は合うだろうけどこういうところは違うな、って思ったりして、そうすると友達ってどうやってできるんだろ?ってそこから考えちゃうよね」目の前にいる友人たちとわたしだって、ほかの友人と友人だって、そうだし。 その人は言った。「彼らは、生きるのうまそうだよね」そして一同がなんとなく沈黙。 それぞれの夢を聞かれるも私に夢はなかった。 私はそう感じたので、そう言った。「私は自分の想像力を信じてなくて、『事実は小説より奇なり』とも云うけど、こうやって集まって、仕事の話、恋愛の話(わたしたちみんなでこんな風に喋らなかった)、結婚の話、将来の話(思い出話はあんまりしない)をするなんて、サークルでいた頃は考えたこともなくて、想像もしなかった遠い未来に来たな、って」「人が好きなこと、人に興味を持てることはとてもいいことだよ。」 ただ友達は必要だ。と私は思う。彼女は言った、「今年はもっと友達と仲良くなろうと思ってるんだ」「うん、友達になろう!」 同じ子の近況報告を何度も聞く。私も何度も言った。
転居する1ヶ月前くらいにそのお店へ初めて訪れて、それから週1で通った。あんなにいい音で音楽が聴けたのは、あんなに大音量で音楽が流れてる店は、初めてだった。背丈よりある、180cmくらいのスピーカー。ジャズのレコードを流している。音は耳で聴く、物は目で見る、という常識を超えていく。目で見るように音を聴く。触ってたしかめるようにメロディと、その音色を聴く。音を耳から聴いていると思わない音。目を閉じれば、まるで目の前でそれらの素晴らしい演奏が繰り広げられているようだった。ほんとうに。ジャズなんてほとんど聞いたことないし知識も全然ない、でもあそこで1時間半、2時間とその演奏を聴いて過ごすのが好きだった。惜しい、悔しいなあ、またその街を訪れた時には必ず。
うみのてを観て、数年前、10年前とはいかないし3年前でもないんだけれど、5・6年前の私がこのバンドに出会っていたら彼らは私のヒーローだったろう、と。年を経るにつれて好みが変わるのは決して悪くない(過去の自分を裏切るけれど)。もちろん嫌いなわけではなく好きなんだけど、抱く感情がきっと違うのだろう。
paioniaのライブを約1年ぶりに観た。とてもよかった。高橋勇成という表現者を、私はとても信頼している。 「東京」は、大震災を歌った歌だと思っていたのだけれど今はもう違って、2011.03.11を経験したわたしたちの、東京の歌だった。「女の子たち」が再収録されていて、女の子ウケがいいんだという。それはやっぱり、「私たち」のことを歌ってくれているからだと思う。歌われるその解釈は合ってたり間違っていたり、図星だったりそうでもなかったりするんだけど、私たちのことなのだ。それは一人の「君」のことではなく。そしてそう思う「君たち」を愛おしく想う。
夏の終わりの、秋の匂いや空気に悦を感じる。感じていた。秋の匂いというのは必ずあるよ。それはキンモクセイの香りではなくて。
堂園昌彦さん『やがて秋茄子へと至る』を読み終える。三富栄治さんの『ひかりのたび』が素晴らしい。一人で暮らした、なんでもない夕飯を作って食べた、あのだだっぴろい部屋さえ映画のワンシーンになった。