「何しに僕は生きているのかと」

一人暮らしの特権のひとつに食事の時間の自由がある、というのをさっき発見したので、昼ご飯か夕ご飯かわからない、どちらでもないどちらでもいい、食事をとった。貧弱な装備ながら自炊もしている。野菜をよく買ってきて調理する、切ったり、炒めたり、煮たり、焼いたり、野菜とたわむれるのが好き。料理してるというよりたわむれてるという気持ち。肉は切るときぬるぬるするから苦手であんまり買ってこない。
豆腐と卵とハムを炒めた、それはもう人に見せられないようなひどい見た目でおかしくて笑っちゃう。豆腐と卵をまぜ合わせるとどこが豆腐で、どこが卵なのかわからなくて、なんでか宇宙食を想う。何を食べているかがわかるからそれを認識して味わえるわけで、未来、こういうまぜ合わせた流動食ばかりになったら人間たちは頭がおかしくなってしまうだろうと。食べ終えるとき、これは概念の、味わったことのないものの味なのだと思った、多分「宇宙」か「風」か「はじまり」の味。
斉藤倫さんの『本当は記号になってしまいたい』という詩集を買った、このタイトルすごくいい。装丁が素晴らしく、名久井直子さんの手がけたもので、気付いたり気付かなかったりするうちに彼女の本が増えていく。活版印刷で紙に定着された文字、文字や紙、ページ、本という物体と対峙していることに意識的になる。これがパソコンの画面ではよろしくない。
TwitterFacebookもブログも更新しない、東京の友人ともほとんど連絡を取らない、朝早く起きて同期と会社に行って誠意を見せてそれなりに働き、部屋に帰ってきてご飯食べてアラームを11回セットして寝る。世界に対して何も訴えかけない日々だ。ほとんど誰も私の生活を知らずに過ぎてゆく日々だ。訴えかけたいこともない。みんなそうしているんだろうから、私もそういうのに慣れないといけない。夢とかこれからやりたいこともないし、趣味はあるけどなにか吸収したそれが外へ出ていくことはない。これからずっと1週間を何度も何度も繰り返して、なにか憧れを諦めていかないといけないのかなと思っている。努力を面倒くさがるからいけないんだけど。1回きりの人生に、たいして期待してちゃいけない。
やっぱり「ここで何してるんだろう」って時々思うしこれからも思うんだろうなあ