かんがえごと

朝井リョウの『何者』を読んだ。友人に勧められてどんなもんかと斜に構えて読み始めたけれどとても面白かった。
現在の時代としての傾向なのか、私自身がそれに気付く時期にいるのか、触れた作品たちがたまたまそういうものばかりなのか、最近は、あなたは/わたしは/わたしたちは何者にもなれないよ、身の程を知れ、と残酷に、でも悪意を含まず諭すように、教えてくれているモノが多い気がする。震災や、就職活動を通して人々はそれを知ったのだろうか、下手な幻想を抱き続けないように導いてくれている。無力な私を受け入れざるを得なくなっている。 ありのままの私を受け入れて世界を肯定し祝福しようとする人と、それとは対照的に悪意と悪口と暴力が溢れている世界とそこで生きる人のどちらともを見かける。
坂口恭平氏のような"進んだ"考え方に対してどのようなスタンスでいたいか定まらなくて悩んでいる。家など買わなくていいと考える人が増えているのだろうか。実物のモバイルハウスを見たけれどここに住みたいなとは思えなかった(それはなぜなのだろうか?)。私は未だに凝り固まった常識にとらわれたままなのかもしれない。私には少し広過ぎてすべてに手が行き届かない、父が購入してくれた四角い一軒家に住んでいる。怠惰な人間なので安定していたいと思ってしまう。
学生という身分に隠れてほとんど負荷のかからない気ままで平和な生活を送っている。このまま死ぬまでずっと同じような日々を送っていくような気がする。憧れに憧れたまま時間を流していく。きっとこれから、何かしらが色々と目まぐるしく変わってゆくのだろうとわかっているのだけれど。変化してゆくために行動するべきなのだけれど。良くなることはもちろん、悪くなることも思い浮かばないのは想像力不足だ。誕生日占いや星座占いにあたってみてもぴんとこなくて誕生日を疑ってしまう、母子手帳にちゃんと書いてあるのに。愛が足りないんだろなってなんとなく考えてる。
2013年2月号の雑誌『群像』内の穂村弘氏の「現代短歌ノート」。「進行性不治難病と告げられて何処に在りてもわれは〈時計〉か」という山口健二氏の短歌に触れて、「『進行性不治難病』とはそのまま生の別名とも云える。」と書いてあったよ