パンプ

無関心と忘力のおかげで生きている。ほんとはみみっちいこととか細かいことに気付いて何かしら感想を持っているけれど、言葉に出さないでいられるのはその人は私と関係が無いから、時が経てば忘れられるから。なんでも許してるように見えると言われたことがあった、それが理想だけれど全くそんなことない。
人と会ってももやっとして気持ちが晴れないときは決まって、思ったことや言いたいことが話せなかったときだ。人の他人に対しての興味の薄さにほとんどいつも失望する。結局、自分の話を聞いてほしい気持ちで会話が成り立っている、私自身もそうであって。話を聞く時間と話す時間が同じで、対等に話ができたらいいのに。そうしたら別にわかりあえなくてもいいのに。相手が自分の話を聞いてもらいたがってるか私の話を聞きたいと思っているかくらいはなんとなくわかるし、その聞いてほしいという希望に応えようとすることは自分を抑えることで、別れた後も会話をしたという満足感が無い。でも聞きたがっていない人に向けて自分の話をしたいと思うほどには自信が無い、つまり聞き手を選択していること、これは傲慢だろうか?でも例えば、年上の人がためになる話をしてくれるときはありがたく話を聞くに徹することもできるし、満足感を得ないということは私の相手への興味の無さを自ら確かめていることになるんじゃないか? とかいうことをバイト中に考え出したりしてつらい。聞く・聞いてもらう人、話をする人を選びたいし、何より私の話を聞いてもらいたいってことを確認して、欲望が醜いなあと感じるのでつらい。謙虚でありたいよ。
「ハッピーバースデー!」と言われると喜ぶけれど、何がうれしいのかわからない。他人の誕生日というのはその人の生誕記念日であっていくつになってもおめでたいものだと心から思うし「おめでとう」を言うときはこれからのあなたの一年がいい年になりますように、と一瞬でも祈るようにしている、自分の誕生日となるとなぜかそうは思えなくて、いや理屈としてはわかるけどそれをどう喜べばいいのだ?とかゆって「おめでとう」と言われてもうまく感情の整理ができないし、でもその日一日が自らの誕生日であることや祝われないことについて'とても'気にするので歪んでいるしイヤな人間だ。本当は、家族に、特に母に祝ってもらえるのが一番しっくりきている。「わあ、今日誕生日だってこと忘れてたよ」って多分一生言えない。
どんなプレゼントをあげればいいのかわからない、と言って何が欲しいかと友達に聞かれたけれどなにひとつ答えられなかった。欲しいものは、アイフォンのメモに箇条書きする(書いておかないとすぐ忘れるから)。知り合いがツイッター上でAmazonの欲しいものリストを公開してプレゼントをおねだりしていたのを見てすごいなあと、呆れるとかを越えて尊敬や畏怖の念みたいなものを抱いた。最新号のananは「甘え上手な女になろう」特集とのこと、女子受けするんじゃないかとバイト先で購入されたそれをぱらぱらと眺めた、友達にあげようかなと思った。そしたら友達にあげる前に読もうかなとも思った。何欲しいのかわからない、と言われた友達にプレゼントしたいものはたくさんあって、結局自分のことちゃんと話せてないだけなのかなとか。ここに欲しいもの書き上げようかと思ったけど、書けなかった。
この前、ceroNHK-FMライブビート収録ライブを観に行った。最近仲良くしてる女の子の友達を誘った。ライブは素晴らしくて、新しいアルバム『My Lost City』は買おう、と思った。私にとってceroは、好きなんだけれど、心を持ってかれる盲目に愛する音楽ではなくて、変に理性的になって聴いていて、感心したり感動したりする。ちらっと隣を見ると友人は少し体を揺らしてとても楽しそうにステージを見ていて、私はいま彼女に声をかけられないし、触れられないなって確信的にそう思って、音楽ってそういうものだし、でも自分自身の圧倒的な無力感みたいなものを感じるし、彼女に対しての孤独、というあの感覚はずっと忘れられない。7月、スカートのレコ発ライブを観に渋谷WWWヘ別の女友達と一緒に行った時も同じ気持ちだった。カップルでライブを観に行く男の人はこういうときにさみしい気持ちになったりしないのだろうか。
最近面白かったのは、オルグで観たスッパバンドのライブと、東急ハンズで革のブックパッカーを手作りしたこと。スッパバンドは初めて体験した、音楽って自由だなと思った。有限性ばかり気になる近頃なので開放的になれて楽しかった。彼らが演奏するのも音楽だけど、自由だった。麓さんのバンドセットのライブは最近観た中ではあんまり良くなかったけど弾き語りで歌ってた「ペンタゴン」という曲が良かった。友達に誘われて革のブックパッカーを作った。本当に1枚の革から穴を開けて糸を縫って作っていった、手を動かして物を作るっていいねえ!こういうこともっとしたい、手近なところでは料理とかすればいいのだけれど何かを火にかけるのさえ面倒くさがって毎日豆腐ばかり食べてる。そのあと新宿でビュッフェ=食べ放題のお店に行ってお皿にたくさんの種類のデザートを盛って席に戻ってきたら残り時間が10分で、タイムトライアルみたいにデザート食べたよ〜、一番おいしかったかぼちゃプリンをかっこむのは苦行のようだったよ〜、という話を10回くらい、会った人にした。そうすることで上手に伝える方法って見つけていくんだろうけど、同じ話何度もするの全然好きじゃない。
こういう、自我との闘い?みたいなことを一週間くらいうじうじと考えてる。なにか信じたいものも無く、やり遂げたいことも行き着きたい場所も無く、やるべきことだけが山積みで、寝て覚めても変わるものも無いし、恋人関係とか恋愛もいまはあんまり興味が無いし、新しく聴く音楽も少なくなって、演劇はたまに観に行くようになった、沈み切るでもなく晴れやかな気分でもないし、どうも落ち着かないのは秋がきたからだろうか? 「来年から会社員になるんだからいま時給で働くのばかばかしくない?」と訊かれたとき、いまのバイト先が好きなんです、「労働することで精神が安定するというか、その場所で与えられる役目につけばいいというのがいいんです」と答えていて、ああやっぱり私はそう考えてたんだなと知った。今日は「学びて思わざれば則ち罔し」という言葉を教えてもらったので教訓にするべき。
センチメンタル〜な文章書くのやめたい、でも自分のことしか書かないから「私」「自分」「いま」「とか」「でも」「けれど、」「言った」「思った」「考えた」「感じた」ばっかりで文章がどこまでも稚拙だ。

スピッツの『おるたな』を聞き返していて、この曲の素晴らしさに気付けて、繰り返し聴く。この歌詞の、生意気なようなわがままなような、ビッチみたいで受け身でずるくて、でもどうしても共感できちゃうのがくやしい。月と月の影が好き、満月も好きだった、満月が次の夜から欠けちゃうなんてほんのこれっぽちも考えたことなかった。原曲のはずんだ曲調よりスピッツのカバーのほうがずっと好き、草野さんが歌うから女子の気持ちがリアルに聞こえる、変なの、男の子はこの気持ちって理解できるのかなあ、どうしてこの曲歌ったのかなあ。