かたちだけのものですが

目白のかわいらしい古本屋さん・貝の小鳥で見つけて購入した「サングラスの少女」という本。はじめからおわりまでたわいないことばあそびが繰り広げられていて最高だった。1920年代にフランスのシュルレアリストが書いた詩のようなものを日本語でやろうとしていて、どんな人が書いているのかなと思って読み終わった後に作者名を検索したら、北山修という、「あの素晴らしい愛をもう一度」などの作詞をしている作詞家でありミュージシャンであり精神科医なんだそうだ。頭に???ばかり浮かぶ。友人にもらったちょうちょうちょうちょの栞をはさんで読んだ。
––「たとえどんなものでも『かたちだけのものですが』って言うだけでどうにでもなるのよ。たとえばいま私は花なのよ」/「私はかたちだけサルなのよ。私の場合さる三日前にサルから人間になりはじめたの。まだ完全に人間になりきってないから、今がなんにでもなれるチャンスなのよ。だから今なら花にでも友情にでもなれるのよ。すてきでちょ」/「たとえばダイアモンドの宝石に『かたちだけのものですが』と言えば宝石は愛になるのよ。それから、お金でも『かたちだけのものですが』で感謝になるのよ。」(北山修『サングラスの少女』)
つらみは人に会えば薄れるでしょう。いずれ時間が解決してくれるでしょう。大好きな人たちについて今までにないくらいたくさん喋って、不思議な本を読みながら帰ったら、その一日は映画だったんじゃないかなって感じた。話しているときたまに、あることばが"コツーン"と空間に響いて、映画のワンシーンのように大切な一瞬のように感じられるときってある。何を話してたか忘れちゃうんだけど。あの喫茶店が好き。
近づかないほうがいい、ある一定の距離を越えると私は絶対にあなたを不愉快にさせてしまうから。傷つくことより傷つけることのほうがこわくない?傷つけることで自分が傷つくのがイヤなんだったら結局は保身のためかあ。悲しい笑顔っていいと思わない?と聞かれたけど強がる気持ちを思い出してしまって、シチュエーションによるよね、と答えた。いくら面白いものに囲まれてても自分が面白くないと仕方ない?