世界中の子と友達になれる

3月14日、横浜美術館へ「松井冬子展 –世界中の子と友達になれる–」を観に行ってきた。
会場の出口前、一番最後に飾られていた「生まれる」という作品が、死や狂気と同じトーンで描かれていた。彼女の作品において、生と死は正反対のものではなかった。入り口付近の作品からは狂気が明らかに感じ取れたものだが、ずっと展示を回っているとその感覚が薄れていく。狂気が当たり前のように自覚されるような気持ち。描かれる花は、おそらく現実以上に生々しく、意思を持つ動物のようである。どんなに恐ろしい、グロテスクな作品も"絶対的に"美しく、ゆえに、一般的に考えると気持ちの悪いモチーフの作品も多くの人に見られることができて普遍性を見出すことができるのだろう。彼女が思考し表現したいことをすべて可能にするのが、彼女が選択した日本画という技法なのだろうと強く思わされた。
描かれる人物はすべて女性であり、それは彼女が身体・精神の感覚を共有できる存在だから、とのことだった。その女性たちは皆整った顔をしていて、どこか、彼女自身にも似ていた。松井冬子氏も美しい顔立ちをしているし、美に関しての執着が強いのかな、と勝手に考えた。女性について、「同調に関する優れた能力は、卵を作る、分身を作るという子宮を持つ者の強い特権だからである。」とあった。母がTVドラマを見てよく泣いているのはこのことゆえなのかな、と思った。
「死ぬことは長い休息とみなされ、積極的な生命の殺害よりもひたすら休息を求めた結果のこと。」生きることも死ぬことも選択肢のひとつだ。生きること、死ぬこと、生きないこと、死なないこと。選ばなければならない押し付けがましい選択肢ではなく、何気なく選んでいること。今は、まだ生きていたいけれど、死ぬという選択肢も自然に隣にあると思う。首を吊るための縄を買った、という知り合いがいるそうだ。その選択肢が隣にあるだけで落ち着くんだろう。生まれないという選択肢もあったと思う、ただこれは、私が選んだわけじゃない。/最近ライブを観に行くと、音楽には終わりがあるからいいなあと思うんだ。音は時間と一緒に流れるから、どんなに心から「この瞬間が永遠に終わらなければいいのに」と望んでも、いつかは"絶対に"終わる。それって素晴らしいことだ。救いだと思う。
彼女の写生や習作、下図などがたくさん展示されていた。1枚の絵が、隅々まで考え尽くされたものであることに改めて驚く。自らの思考と技術でよってのみ完成される表現を作り出せる人間に憧れるし、信じられない。でも私は、偶然が好きかな。
現代美術について語るのってなぜこんなに恐ろしいんでしょうね。語るならまず、美術手帖など読んで勉強するべきだという脅迫観念がある。ただ自らが勉強すればいい話、知ればもっと愛せるようになる、奥が深いものなのだとわかってる。でも私は、小難しい世界となっている現代美術を憎んでいる。