また明日

「明日を落としても誰も 拾ってくれないよ それでいいよ」 ああ、そうなんだなーと、思っている。大人ってこういうことなんだな。
どうしても、酷いことだとわかっていても、「死にたいなら死ねば」と思う。自分にも他人にも。生きていることが何より至高のことじゃない、生きている人間にとっては、そうだけど。(そして辛いことが死んだら終るのならば、だけれど)
ただ、「人に迷惑をかけるな」と強く言いたい。構ってほしいとかそういうふざけたことを考えるな、人を殺すな、周りの人に迷惑や心配をかけるな。広末涼子がドラマ「聖女」で入水自殺するシーンはよかった。生きている人は生きていれば絶対になにかを忘れていく、それは眩しい希望だ。たいしていいことなくても死んでしまう理由もないし大きな迷惑をかけずになんとなく生きているのがいまは楽である。甘い。祖父が死んだとき、「私は生きたい」と強く思った、なぜかは忘れた、けどそのエネルギーの塊の存在した過去、はよく覚えている。それは眩しい希望だ。 近頃は、いつか大きなヘマをやらかして責任をとって会社を辞めなければならないような、そういう未来があり得る気がしている
東村アキコの『東京タラレバ娘』を読み、「わたしもきっとこれから、誰にも必要とされないのだ」と一日くらい落ち込んだ。 まあそれはそれでひとつの道としてあり確実に覚悟を決めなければならないとして、でもなんでみんなそんな風に、「ここまで生きてきたから/こういう風にやってきたんだから、私にはきっといいことがあるはずだ」と強く信じられるんだろう、それは自信であり、傲慢さであり。自信というのはそういうもので、たまにくじかれたり報われたりして、築かれてくものなのだろうか。30年とかもっと、長く生きるというのはそういうことなのだろうか。
まわりの人を見てると、「わたしはこんなに頑張ってるんだから」っていう自負と、「わかっていますよね」という身勝手な信用とミスコミュニケーション、というのが何かをよくなくする原因であると思います。ちゃんと、辛いのは自分だけじゃないし、悲劇のヒロインぶっても誰もかわいがってくれない、ということをわかっていないと。相手は何もわかってないはずで1から伝える覚悟でいないと(勝手知った仲では逆に失礼になるのかもしれないけれど)。ということを、自分に言い聞かせようと最近はよく、思います。
人がみんな自分の悪口を言ってるように思えるって普通のことだと思ってたら鬱の症状とかテレビで言ってて笑った。呪いの言葉は世の中にあるし、一度かけた呪いもそこに生まれた事実も解けない。