踊る理由

「4月26日」とかここ数日あたりの日付にすごくデジャブ感ある。そりゃあ、毎年同じ日付があるんだから既視感があって当たり前だけど。なぜかすごく懐かしい感じがする。
去年は桜が咲く時期は引越し、新生活でばたばたしていて、花見もしなかったし、桜が咲いてたという記憶があんまりなかった。今年は3月末頃、夜散歩をして、ちょうど咲き始めた桜を見上げて、ああ、桜が咲いてるなあ、とじわりと実感したので桜との思い出が深い。花見もしたし。花筏は見なかった(この単語を思い出すためにググってしまった)。桜はあっという間で、もうニュースで「新緑の季節ですね」とかゆってる。新緑の季節にはぜひハイキングしたいねと話してた。花はまだまだたくさん咲いている。やっぱり冬とは全然違う。もう冬は終わってしまったね。太宰治じゃないけど、四季があることは生きるための大きな励みになる。
会社の女性の先輩に誘われて自己啓発セミナーへ行った。定員300人の会場が開演する頃には満席、立ち見で話を聞いてる人もいる。普段生きていくために大切にしたほうがよい価値観や考え方を話していて、メモをとったりもした。でも、そんなこと知ってたよと思うことも多くあった。隣では先輩がおもしろいところで笑ったり、う〜んと深く頷いたり、手帳にメモをとったりしている。セミナーの運営に携わっている若手の人たちはみんな爽やかで快活だ。使命感を持って行動する人は気持ちよく、パキパキとした印象である。信じるものがあることは強いことだろう。それが信仰でもビジネスのカリスマでも会社でも。私は笑いどころでも笑わなかったし笑えなかった。隣の先輩が楽しそうに微笑みながらちらっと私のほうを見てた。少し申し訳なく思う。
軽蔑なんかはしない。いいことなのかもしれない。信じることは強いこと。正しいことや生きていく上で役に立つことを言っていると思う。ただ自分はそこに入れないと思うしあまり魅力を感じない。というのが、何か、信じる対象に対しての私の今の気持ちである。信じなくてはいけないのは、弱いことだ。弱い人間の集まりでもある。人間が弱いのなんて周知の事実でもある。私はまだ自分の弱さが認められてないのかもしれない。幸いなことに悩みが未だ少ないのかもしれない。揺れて立っていたいとも思っている。何かを信じることがこわいと思う。「幸せ」の定義、「自由」の定義などについて隣の知らない男の人と話して、私のそれらの定義って安いな〜、安い女だワと知った。(アウトプットすること、説明して言葉にすることが大事だそうだ。)でも一番根っこは、穏やかでおいしい生活がほしい。
手帳と向き合ってコーヒーを飲みながら過ごす休日の1時間や2時間、無為であるけれどやはり落ち着く時間である。これからやりたいことを箇条書きで付箋に書いて、日めくりのページを進むごと付箋をずらして、それができたら○をつけてく。お花見するとか、としまえんに行くとか、温泉旅行とか髪を切るとかカラオケ行くとか。しょうもないちっちゃいことだ。夢、とまでは全然言えたもんじゃないけど、やりたいことは少しずつ達成できていくものだなと。
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六本木アートナイト2014へ行き、クワイエット・ディスコを体験!
異様な光景である。入場者は区切られたエリア内で配られたワイヤレスヘッドホンをし、身体を揺らしている。ディスコのお立ち台のような場所でセクシィな女性が踊っている。でも、ヘッドホンをしてない外から見てる私たちは、わからない。なんの曲が流れてるのか、どんなリズムに合わせて踊ってるのか、どうしてそんなに楽しそうなのか。理解できないし共感できない。外で見ている人のほうが圧倒的多数で、「何あれ?」って話しながらざわざわとしている。ヘッドホンをした人は笑いながら話したり大きな歓声(奇声)をあげたりする。
私も参加したい、と好奇心がムクムクムクムクわいてきて、別の場所で行われる次の回に並んだ。見て湧いた好奇心というか、ほんとはこのクワイエット・ディスコに行ってみたいがためにアートナイトに来てた。順番が来て、しきられたテープの中に案内してもらってヘッドホンをする、と同時に身体が揺れ出す!たのしい!
そこには踊る理由があった。ヘッドホンで流れてたのはEarth,Wind&Fireの『September』とか、誰もが知ってるきわめてポピュラーな曲。踊り出したくなる音楽ってあるんだな。 不思議なのは、すごく踊りやすいこと。本当に、ヘッドホンをつけた瞬間、身体が揺れ出してしまう、踊り出したくなる音楽に反抗する術がなくなってしまう。テープの周りではさっきの私みたいに怪訝な目で見てる観衆がいるのにそんなのまったく関係なくなってしまう、恥すら忘れる。クラブなどのそういう場所へ行って踊るのとは違う感覚。理由が明確だからか。
私が入った会場ではミラーボールマンという全身に鏡を貼付けた人がいてその場を盛り上げてた、その回はDJブースなどもなかったせいか皆ミラーボールマンのいる方向を向いている。彼の求心力というか、身体を向けるやり場のなさというか。あと、入るまでは、大音量で流れる音楽を振動も含めて身体や空気で感じることはないし、どうなんだろと思ってたけれど、あまりそこに違和感は感じなかった、むしろヘッドホンしてみたら割と音質が良くて嬉しかった。
ヘッドホンをしている/していない、というのは共感できる/できないであり、踊る理由がある/ないであった。端から見て無音である中で楽しそうに身体を揺らす人たちというのはキチガイじみてて宗教の儀式のようだった。近未来っぽい。 電波を受信する機器がヘッドホンとコードでつながっていて、手に持っていたそれを一度バッグへいれようとしたら電波が遮断されて一瞬音が聞こえなくなってしまったときはすごく焦った。ヘッドホン無しでは、彼らと一緒に踊れるのだろうか?
一緒に入った人が15分くらいで飽きて(踊りかたちょっと変だった)、一緒に出てしまったのでほんの短い間だったけどその間にこういうことをぐるぐる考えてた、考えながら踊る。ヘッドホン外すとすぐ日常に戻れてON/OFFの切り替えがスイッチみたい。不思議な体験だった。おもしろい。

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今まで「踊る」というと、ダンス部あがりの私はガチのダンスを想像していて、Twitterなどでクラブイベントに参加して「踊った〜」と話してる人に対して納得できなかったけど、私が上で「踊る」と書いているのは「音楽に合わせて身体を揺らす」という感じのことです。みんなそういう意味だったよね。六本木アートナイトには初めて行って、「動け、カラダ!」という今年のコンセプトは非常に良いと思ったしクワイエット・ディスコ体験は非常に楽しかったけれど、あんまり親切でなかったしなんとなく物足りなかったなあ。ただ、いつもはオフィスレディ/オフィスメンが歩いてる六本木が、その夜はちょっと洗練された雰囲気があって面白かった。