身の回りで起こることに意識的になり過ぎているのかダークモードな10月。「季節の変わり目」というのは夏から秋へと変わることだとずっと思っていたのに、もう秋から冬へゆくことなのね、そのことにショックを受けている。「秋がないね」と友人。ぺろーと、ふわふわと生きてたい。このまま恋もせず枯れてしまうのではないかと不安になる、きっとそんなことはないだろうと思うんだけど、若さがもったいないと思うことがある。愛がもったいないことはある?
愛、といえば五反田団の「アンダスタンダブル?」を観た。昨日「すてるたび」も観た、五反田団は観ている時に大きく感動するというよりは見終わった後思い返してじわじわいいなあ、と染みてくる。電車で温泉旅行したくなった。「ねぇ、見てここ…………………すべすべ〜」って真似したい。どちらも感想をまとめておきたいと思っているところ。どちらも、「えっここで終わり?」というところで終わられた。「アンダスタンダブル?」のラスト、触れることは愛の本格的な解決になりうるのか?むしろ愛の解決って何?愛ってどこまで?
ナンセンスに思われるものは結構好きで、部屋に「L.H.O.O.Q.」のポストカードを貼ってるのは悪趣味だなあと思いながらも、好きなので飾ってある。モビールのポストカードもある、カルダーの作った形のモビールはどこかで購入できないのだろうか?快快の「りんご」のシェイクスピアからのアダムとイヴネタはここ最近で心の底から面白いと思ったネタだったんだけど共感してくれる人いないだろうか。「りんご」、何かの形でもう一度体験したい。
FacebookやLINEにて現在関わりのない人とか昔少しだけ喋った人とかの近況を知る、私がいま、知らなくていい人≠知りたくない人(もしくは知らなくていい人≒知りたくない人)についての情報にページを開くたびなかば強制的に出会わなければならないのはつらい、と思ってLINEはやめた。イヤな気持ちになるくせにFacebookは開いてしまう。私も人に対してそういう気持ちにさせたくないものである、私が性格悪いだけかもしれない。そこから関連づけて思うのはアーティストは鑑賞者を選ぶことができるのか?ということ、デュシャンの「創造的行為」をもう一度参照すること。私は選ぶのか、選ばれないのか?
東の空のオリオン座、手を伸ばす蛇口を水からお湯へシフトすること、沿線の紅葉情報が流れる、見頃、見頃過ぎ。キンモンクセイの花を落とす雨です。季節の変わり目はいつも体調を崩す、と言う。テレビでファッションショップを回る有名人が「かわいい、かわいい」と連呼する、「かわいい」についてもっとちゃんと考え直さないか?何を根拠にかわいいって言うのか?でも今日ミナペルホネンのショップへ行って「かわいいなあ!」と心から思ってわくわくした、新しいバッグが欲しい、テキスタイルなんて言われてもなんのことかわかりません。男の人についてかわいいなあと思えたならいいけどそう思えないときというのは結構しんどい、自分の心の余裕の問題?マームとジプシーの「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。」の感想を今更ながら書きたい、「ファンファーレ」について、「アンダスタンダブル?」と「すてるたび」について。人に、誰に会いたいのか会いたくないのかよくわからないまま。書き始めてからずっと同じデザインだったこのページ、そろそろもう少し変えてもいいかなあと思っている。
ここには過去のことばかり書いてるなあと思ったので未来の話もしましょう。近いうちアジアへ旅行に行きます。11月はF/T12の「光のない。」を観に行く、あと同じくF/T12の「キメラガールアンセム/120日間将棋」か「あたまのうしろ」かハイバイの「霊感少女ヒドミ」のどれかひとつかふたつを観たい。「ライク・サムワン・イン・ラブ」は上映中に観に行けるかなあ、卒業論文に徐々に追い込まれていきます、やりたいことはいつもたくさんあります。
Gofishの『とてもいいこと』を部屋でずっと聴いている。ここから試聴ができます。