うつむいて

9/2(日)フジワラサトシさんのライブを観に行った@七針。
「やります。」と宣言して彼が息を吸うと、それまで七針のスペースにひそんでいた静寂の気配が、大きくなる。普段、これほどまでに静寂の、鳴っていない空間の音に意識的になることってない。足を動かして木の床が軋む少しの音さえ、鳴らしていいものかどうか戸惑う。静けさが立ち上がって空間を支配する。4人が音を鳴らして静けさを破ってゆく様が勇ましく見える。彼らが楽器を持って音を鳴らすこと、その姿、それだけでもとてつもなく愛おしい。フジワラさんの声は弦が震えるように鳴り滑るように音を移動するので弦楽器のようだ。それと、ライブ中に見せる彼のちょっとしたそぶり、何かを忘れた、もしくは何かを知らなかったような、少し呆然とした幼い少年のような顔、大人の男の人のそんな表情はどこでも見たことないから、不思議だなあ、と思って見ていた。
眠くなる音楽だと言っているけれど、目の前で演奏しているのを聴いているととても寝る気になんてなれない、ゆっくりと弾く姿を見つめて、じっと耳をすます。(家では眠りにくいときに『夜に生まれる』を枕元に置いたiPhoneから流すんだけれど、最後まで聞いてたことがない、よく眠れています)「波」という曲を聴きながらなにかそんなようないろんなことを考えたりして、少し涙が出た。(「泣けた」「泣いた」が感動の度合いを示す尺度になっていることは、好きじゃないんだけれど。)湿った右目の下まぶたの感覚に気付いたのも初めてだった。「この今」の後半で弦楽器2人が一音ずつ同じフレーズを弾いて聞こえる和音だとか、ナガヤマさんの鳴らす少しの不協和音だとか、やわらかなタッチでときにはねるように遊ぶピアノだとか、3人が気配で感じるフジワラさんの指揮だとか、あの曲はおもしろいなあ!と思う要素がいくつも。演奏は静かだけれど心はほんとはパンクで、エモーショナルで、と話していたら七針の社長にリバーブで茶化されていたけれど、例えば演奏を始める前にPAのほうに向かって「あ、リバーブ、切ってね」となんとなく言っていたことも、そのひとつかなあと思う。(カラオケに行ったとき、リバーブって絶対切りたくないもの。自分の声がそのまま聞こえて下手なのバレちゃうもの、彼は戦略的にそれをやっているんだろうけども)
私は、彼の音楽は完全を求めているわけではないんじゃないかと思っている。失礼にあたることかもしれないけれど、私にとって、フジワラサトシさんやkyoooさん(まだライブを拝見したことがないのでさらに申し訳ないけれど)の音楽は、何を食べたらそうなるのかわからないほどの才能や技術を持った手の届かない憧れの存在、というような人の音楽(脚色し過ぎだけれど)とは少し違っていて、例えば電車の中でたまたま隣に座ったこともある人、みたいな、日常生活に暮らしている人の音楽かなあと思っていて、勝手に親近感のようなものを感じる、あとだからこそ羨望も覚える。(「羨望」については犬尾春陽さんという方がkyoooさんのライブレポにおいてずばりと、書いています→http://shimokita.happy-town.net/t_event/00014819.html) 生活の一部が、こういう形で鳴ることについて。(ただ羨望は自分勝手なもので、その形を獲得するための努力を惜しむ人には、形は得られないということ。)
ただ、その日多くの人を眠らせていたのは2番目に登場した小島誠也さんだった。パソコンと向き合ってミニマルなビートを鳴らしていたせいだったけれど、私はそのビートに合わせた彼の身体の動きに夢中でした。リズムに合わせてびよんびよんと弾力性のある動きをする(ビートが変わると動きのパターンも変わる)彼はパフォーマーのようだったしあれはインスタレーションだったんじゃないかな、なんて。なんとなく、秘密の抜け道とか知ってそうだなと思った。Vapour TrailさんのCDを購入して帰った、本当は彼の好きな映画を訊いてみたいと演奏を聴きながら思っていたんだけれど訊けずじまいでした。CDはこれから聴く。
聞こえてきた会話、「息子にもらったねこじゃらしがこんなんなってたよ」と言って白くひからびたねこじゃらしを持って笑ってたワンシーンがよかった。
真夜中に人にあてて書く手紙みたいな、感想文だ。  最近なんとなく考えてること、ことばになりそうなのでまた近いうちに