Untitled

5/1(火)ジャクソン・ポロック展@東京国立近代美術館へ行ってきた。彼のそれまでの仕事をたどりながら臨んだ1950年作「インディアンレッドの地の壁画」を前に、感動して涙が出そうだった。現代美術についての小難しいなんやかやを無視して、あの絵画はただ美しかった。写真で眺めればカオスに見えたり落書きに見えたりして批判を受ける、私もそれは否めないよなと思っていたけれど、眼前で見たあれは違った。重なりあうペンキは豪快であり繊細だった。抽象でしか表せないものを見た。「私は自分の感情を表現しようとしているんです。」と映像の中で語っていたポロック、1950年のあの時点では、独自の手法を使ったあの抽象画こそが彼の最高の表現だったのだ、という事実がはっきりと見えた。その後、絶頂期を越えて彼が死ぬまでの作品群は、新しい何かを見つけようと挑戦していることは感じられたけれど、死ぬまでに新しい地平にまでは行けなかったようだった。おそらく「カット・アウト」という名前だったか、ドリッピング・ポーリングを用いた、オールオーヴァーな構成の今までの絵画を人の形に切り取った作品があったけれど、あれは完全に具象に負けていた。
抽象の話からインストへと、最近全部oono yuukiバンドに結びつけて考えようとするので、自分の入れ込み具合に、ほとほと呆れます。彼らが素晴らしいことはどんな人にも知らせたいけど、さすがにうるさい気がする。検索ワードにひっかからないでくれ。酒の肴に流し聞きしてほしい。いまの私には話す相手が全然いないから、こんなにたくさん文章を書く・書けるんだろうなとも思っています。
話そうかなと思っていたことは全然話せなかった。私が何か喋ってもゆきばのない愚痴にしかならないから、それで良かったのだと思う。公園の、新緑の木々の中を話したり黙ったりしながらずっと歩いた。何かを得て何かを失っている時間だった。たまにはそういう日も良い。別れ際、背を向けた時に一瞬見えた顔がなんともいえないような、とても切ない表情だったけれど、さよならの手をあげて振り向かずに階段を降りて帰った。
会場の一番始めに、初期に描いたというポロックの自画像があったけれど、ああいう少し禍々しい印象の人物のポートレートを見ると私は、以前シャガール展で観た濃い緑色で顔面を塗りたくられた彼の父親の肖像画を思い出す。記憶はそのとき受けた感情を誇張しているかもしれないけれど、「自分の父親の顔面を緑で塗るなんて!」と衝撃的だった。どんな感情を込めて描かれたのだろう。私には人の顔が緑色に見えたことがない。そのあと所蔵作品展を簡単に見て回ったけれど、知り合いの画家さんが描く絵のほうが現代美術コーナーに飾られてるものより何倍もかっこいいと思った。
そうだったのか、と答え合わせ。少しだけ笑う。それだけ。