東京ブギウギ

昨夜は3ヶ月ぶりに会えた友人と薄利多売の昭和風居酒屋で生ビールやら電気ブランやらを飲み煙草をふかしながら話をしました。2012年で暦が終わる話、ポルターガイストの話、神秘の中で上がったり下がったりと波を描きながら生きるのが健全だという話、男女の目指すものの違いと調和と前進が作用し合ってたどりつかない螺旋の円を目指す線状となり続いてゆく話、犠牲のリサイクルの話、両手を合わせた関係が素敵だという話、浄化される音楽についての話などをしてもらいました。私はこのブログに書いたような話をしました。「それでも春を待っている」との土井さんの曲についての話に興味を示してくれたことは嬉しかったです。部屋の中でCDが行方不明になってしまったのでちゃんと探そうと思います。今まで考えていたことの発表会のような場で、互いにずれた方向を見つめながら話を展開して正直相当かみ合っていなかったなあと思いましたがそれでもとても楽しかったです。考え尽くして悟り切ったように見えたのには少し畏怖の感情を抱きましたが彼曰く今はそういう時期で、これからも悩み続けよう、と話して23時過ぎに解散しました。悩むのをやめてこれが正しい、と行き着いてしまう人間は恐ろしいです。「それでも」という気持ちが重要。ロマンチスト同盟を組み、副会長になりました。最後に私は行き場の無い愚痴ばかりこぼしてしまったので、久しぶりに会った人に向かってこれかよと情けない思いでした。公園に行けばよかった、残酷なことをしてしまった、と後悔したけれど私から絞り出せるものはもうほとんど残っていなかったし、凍え死ななくてよかったのかもしれないと思い込むことにしました。左上唇の輪郭がぼやけてるところが素敵でした。
坂本慎太郎の『幻とのつきあい方』を買って聞いたとき、今まさにこういう音楽が聴きたかった!とうれしく思った。彼が何かの雑誌のインタビューで「だけど、役に立たないもの、意味のないものがある世界って、幸せだなって思うんですよ。」と答えていたのを見て、なぜか私が存在を肯定されたような気分だった。パニック映画だったり宇宙人が来襲する映画だったりヒーローが大活躍する映画だったりなんでもいいんだけど、主人公がいる背景には大きなものに壊されてしまう物や人がたくさんいて、それらのひとつひとつにはストーリーが与えられない。主人公やシーンを引き立てるための人々なのだし何より映画は虚構なのだから当たり前だけれど、その存在にスポットライトが当たらないことを悲しく思うときがある。この世界にはどこかに偉大な主人公がいて、何か大きなことが起こったら真っ先に犠牲になるのはたいして意味の無い私のような人間で、だから私が生かされているこの世界はまだ幸せなのだ、だからまだ生きなければならないのだ、というようなことをシャワーを浴びながら考えてた。坂本氏の音楽について考えてたこととはずれてしまったけどまあそれは、またいつか。