水が欲しい

自分の言動についてこんな風に後悔するのは久しぶり。反省ってなぜ痛くないのだろうと思う。私は、体に染み付かせるためにもっと痛み苦しむべきだと考える。でも自分もかわいくて涙なんか出てきちゃうからやだやだ。痛みがなければ結局忘れてしまうのだ。痛みは、傷となって、時が経って癒えたあとは傷跡になって価値観やこびりつく思い出に変わって人生に影響を与える。あなたのせいで茶髪でショートカットの女はみんな嫌いです。なぜこんなにも簡単に傷付く言葉を言えてしまうのだろう。かわりに君も傷むべきだ。人をさしおいて幸せになろうなんて最低だな。そしてまったく当たり前のことだ。
まだまだ海底までは遠く、いくら潜っても宝箱には辿り着かない。なんて素敵な例えを用いても無駄だなあ、いくら掘っても自分のPRできる箇所が見つからない。自分について改めて考え直してみるのは再発見になるので楽しいと思う、けれど今まで何一つ、自主的に頑張ったことがない。きっと軽蔑の対象なんだろうこういうのは。自分でも呆れ返っているところです。遊ぶことしか好きじゃないよ!海岸を掘っても出てくるのは砂だけ。海を見に行きたいなあ。私は逃げてばかり。
依存している、と私は思っている。こう見えても依存してしまう質なの私、と言い訳する姿を思い浮かべる。お互いに何を求めているのかわからないような馴れ合いは、助けられるけどでもとてもむなしいことはもう学習済みのはずだ。「自分でも何がしたいのかわからない」ってまさにこういうときに使う。卑怯だと思う。本能のようなものだけで行動している。罵られたいです。
yumbo『これは現実だ』を聴いている、何度も聴いている。私のイメージの中にある「思索」という単語によく似ている。なんて言ってもよくわかんないね。この女性ボーカルの方やPhewさんや、まるでこの世の真理や哲学を歌われているような気持ちになるのはなぜだろう。今までで一番、頭の中に染み渡っています。よいものはよい。